カープ球団が創設されて初の公式戦、西日本パイレーツ戦は福岡市の平和台球場で行われ、リードしていながらの逆転負けを食らった。続いて第2戦の国鉄スワローズ戦もあと一歩及ばず、1点差負け。さらに、第3戦は、強風のために試合が中止となるという不運にたたられた。


 この第3戦では初回、記念すべき初ホームランが飛び出し、試合を優位に進めたものの、海からの強風にあおられ、三回途中でノーゲーム。カープに勝機がありながら敗戦、また中止という結果に首脳陣の悔しさもひとしおだった。

 

<開幕シリーズの九州遠征では、ついに勝利の女神も、田中の第一号本塁打も文字通り風と共に去ってしまったのである>(カープ十年史『球』・読売新聞)

 

 さらに、<「お祓いでもするか」>(同前)と、勝利に見放された石本秀一監督をはじめベンチの首脳陣からはため息が漏れたほどだった。

 

 大正生まれ軍団

 新球団カープの開幕は地元の大きな期待とは裏腹に、結果がついてこなかった。しかし、カープのメンバーは善戦したというのが、正直なところである。乏しい戦力でも僅差の接戦ゲームを展開したのだから。

 

 だが、結成当時、カープの選手らに対する専門家や世間の評価や評判は手厳しいものであった。資料からたどる。

 

<広島は選手集めに一向金をかけた形跡なく、つまり軍用金が乏しいのだろうが、全く魅力のない顔ぶれ>(シリーズ原爆70周年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第一回「鯉昇れ、焦土の空へ」NHK)

 

<ベテランとは名ばかりのロートルや無名の選手、はては八百長未遂の選手までかき集めねばならなった苦しいチームづくりだった>(「カープ30年」冨沢佐一・中国新聞社)

 

 さらにこうもある。
<とてもプロ球団と呼べるような顔ぶれではなかった。「球界の養老院」「二軍養成所」>(「カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡」松永郁子・宝島社)

 

 これら、球界の養老院とか、ロートルとか、近年ではお目にかかれない表現であるが、まずはこれらの言葉に注目し、カープ初年度メンバーの実年齢をあたってみたい。

 

 主力でものになりそうな白石敏男と辻井弘は30歳、31歳である。この2人は石本監督も主力として認めており、初年度をコンスタントに出場し続けた。「当時、10年選手というのも多くなかった」とは後年の長谷部稔の証言であるが、それほど選手寿命が短いといわれた初期のプロ野球において、30歳代は峠をくだっていく年齢だったと言える。

 

 カープ史に名を刻んだ開幕戦のスターティングメンバーの平均年齢を算出してみたい。29.59歳(一覧表参照)であり、先の「ロートル」発言に対しては、「なんとか20歳代を保っているではないか」と反論したくもなるが、シーズンが進めば当然ながら30歳代になってしまう。

 

 参考までに、近年のプロ野球との単純な比較は当然できないものの、戦力外平均年齢の29.2歳(2018年・NPB公式サイトより)をわずかに上回る年齢である。

 

 加えて、昭和の時代に入って四半世紀が経とうという昭和25年のシーズンに、すべて大正生まれ世代のプロ野球選手がスタメンに名を連ねるという、いわば広島"大正"カープだったのである。

 

 さらに、当時の球界事情も高年齢化に拍車をかけた。前年の1リーグ8球団から、2リーグ15球団と球団数が増え、選手需要が急上昇。そこであぶれた年齢の高い選手をかきあつめたオンボロ球団と言われたのも致し方あるまい。唯一の若手ともいえる荻本伊三武、坂井豊司らも翌年にはプロを引退していることから、やはり主力は年配層であった。

 

 しかし、たとえオンボロであっても、カープはまさに水を得た魚のごとく、大魚のごとく泳ぎまわり、相手を蹴散らすという、この年の会心のゲームがあった。

 

 そう、カープ地元、広島総合球場での開幕戦であり、廣島シリーズと銘うった3月14日の対国鉄戦である。

 

 ヤジ将軍が連勝後押し

 福岡での開幕シリーズは残念な結果に終わったが、地元の熱気はすごかった。「はよう帰ってこい。わしらが応援してやるぞ」とばかりに、広島総合球場に集まったファンは1万人を超えた。3月14日、広島総合球場での国鉄との一戦はファンの期待に応えたカープ打線が爆発し、これまでの鬱憤をはらすかのように打ちまくったのである。

 

 国鉄は新人投手の初岡栄治を先発にたてたが、あの幻のホームランとなった田中成豪が、いきなりヒットで出塁すると、カープ初安打を記録した岩本章が四球を選び出塁。続く白石がレフト前に快打してまず1点をあげた。

 

 これまでの試合は、あと一歩で勝てない、あと1本がでない中で、鬱積したものがはじけたのであろう。ここから2回までに9安打を重ねて、カープは6点をとった。

 

 こうなると後に広島の名物にもなるスタンドからの応援が、怒涛のごとく浴びせられたのだ。

 

<「ええど…。もう国鉄、わりゃー、負けじゃ」「汽車があるうちに帰れ」「カープの強さを思い知ったか」>(カープ十年史『球』・読売新聞)

 

 確かにこの日のカープは強かった。投げては、開幕戦で先発した、かつての剛速球投手、内藤幸三が、キレのよい変化球で、国鉄打線をバッタバッタと打ち取った。

 

 6回表、国鉄の攻撃を終えて7対0と一方的なリードでもって、カープのワンサイドゲームとなった。圧巻だったのは、その裏、ツーアウトからのカープの攻撃だ。3本の三塁打と、投手陣の乱れにつけこんで一挙に9点をあげた。

 

 こうなるとスタンドも黙っていない。
<「はあええで。強いのはわかったけん、こらえたれえ」「はあええかげんでアウトになったれえや」>(カープ十年史『球』・読売新聞)

 

 有頂天になった"ヤジ将軍"が、言いたい放題の好き放題--。この日、国鉄の5投手を相手に15安打をあびせ、16点をあげた。

 

 いつも厳しい表情の石本監督もこれにはご満悦。コーチスボックスに立ちながらも<サインを出すではなく、ただニコニコと突っ立つばかりであった>(「カープ十年史『球』」読売新聞)。

 

 試合展開に余裕があるせいか、動かない石本監督が久々に審判に駆け寄ったかと思えば、継投策にも余裕をみせた。エース内藤幸三から、つい先日まで高校生であった、新人の石川清逸に代えたのだ。この後、七回に1点を失いはしたものの、最後まで投げ切り、結果16対1で、記念すべき初勝利を地元であげ、セントラル・リーグにカープの存在を知らしめた。

 

 地元ではカープは強いと実感させる試合となった。

 

 翌日の廣島シリーズ2日目は、対阪神。広島の先発は後年に阪神キラーの異名をとる武智修。前日の勝利に酔ったファンの雄叫びが、この日のスタンドからもこだまして、ドラマを生むのだ。

 

 初回の攻防、いきなり先制のチャンスを迎えたのは阪神だった。

 

 ランナーをおいて、呉市・呉港高校出身、長尺バット"物干し竿"の使い手、かの藤村富美男がバッターボックスに入れば、スタンドから間髪入れずにヤジが飛んだ。
<「相手はカープだ。廣島を忘れるよ」>(中国新聞・昭和25年3月16日)

 

 しかし、さすがの藤村富美男、ヤジをものともせずに、レフト前に快打すると、すぐさまスタンドから<「おーい、故郷を忘れたか」>(同前)。このヤジとも声援ともつかぬ言葉の間合いが絶妙で、ファンからは笑いが起こった。

 

 ところで、開幕前に行われた春の野球祭でカープは、阪神に悔しい逆転負けを喫していたが、この日は6回表を終わって、0対3とリードを許しながらも粘り強く戦った。

 

 6回裏、カープは岩本章、白石、辻井弘の三連打で1点を返すと、スタンドは沸きにわいた。この後、阪神、藤村にエラーがでて、追加点をあげ、ついに1点差に迫った。

 

 さらに、当時、二刀流であった武智修が、7回裏に四球で出塁し、すかさず、盗塁を試み、これに捕手も慌てたのか、結果、暴投。武智は三塁まで到達し、さらにボールが逸れ一挙にホームイン。ついに同点となった。

 

 カープの勢いにのまれてなるものかと、阪神も勝利への執念をみせる。8回から、エース梶岡忠義を投入することになった。

 

<後半、エース梶岡を立てて逃げ込みを策した阪神>(中国新聞・昭和25年3月16日)

 

 しかし、8回も、攻めたてるカープは、辻井の二塁打と、坂井のヒットで、一、三塁。ここで二盗をしかけ、これは失敗。だが、勝利まであと一歩という、押せ押せムードにスタンドは沸き上がった。

 

 この大声援に阪神の選手らはリズムを崩したのか、9回裏の攻撃では、ツーアウトから、投手の武智が、センター前にはじき返し、阪神キラーぶりを打撃でも発揮する。続く田中成豪の一塁後方の打球はポテンヒットとなり、一、二塁。そして岩本章がレフト前に弾き返した。

 

 さあ、武智が三塁ベースを蹴り、ホームに脱兎のごとく走る、走る、走る。駆けぬけてホームイン--。4対3、カープ初のサヨナラゲームである。

 

 この会心の二連勝は、地元広島のファンに、カープ強し--、を印象付けた。スタンドからの応援は名物となり、ときには行き過ぎた過激なヤジや、勢い余った行動にもなり、セントラル・リーグでもたびたび問題となるのだが、その起点となったのが、この地元開幕二連戦だといわれている。

 

「カープの強さを思い知ったか」とドヤ顔の"ヤジ将軍"たちであるが、おらが町のおらがカープは2勝2敗で、勝率も5割に戻し、堂々とやっていけると思わせる日となった。

 

 しかし、それでも順調にことが運ばないのが草創期のカープである。この連勝ムードもつかの間、一転して苦戦を強いられてしまうのだが、その原因は……。次回からは敗因をキャッチアップしつつ、どん底を経験しながらも、耐え忍ぶカープの物語である。ご期待あれ。

(つづく)

 

【参考文献】 「カープ十年史『球』」(読売新聞)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和25年3月15日、16日)、『カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡』松永郁子(宝島社)
【参考映像】 シリーズ原爆70周年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第一回「鯉昇れ、焦土の空へ」NHK(ベースデータ『ベースボールマガジン』)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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