広島カープの草創期は、どたばた続きであった。球団経営の主体となる親会社もなく、広島県をはじめとし、県下の五市が主体となって出資するという形態から、手さぐり状態の経営で、右往左往するばかり。さらに他球団と比べ、選手の力の差も歴然としており、「ノンプロの方がまだまし」などの風評がついて回った。

 

 しかしながら、カープが結成された昭和25年春、地元での最初の二連戦を連勝で飾った。このことで地元のファンらは、「カープは強い!」という周囲の評価とは別の実感を得て、この思いに、わずか一瞬でも浸れたことはこの上ない喜びであったろう。

 
 1号ホームランは白石

 開幕シリーズから、舞台を広島県の東の端にある福山市三菱球場に移して行われた3月16日の対中日戦のことである。カープ史上で、欠かす事のできない初の記録が生まれた。


 この日、中日の先発は後に"フォークボールの元祖"とも"神様"とよばれることになる杉下茂であった。前年8勝の杉下であったが、この年から6年連続で20勝を達成するという大エース。これに対する広島も、負けてはいない。ノンプロに埋もれていた逸材を、石本監督が発掘して育て上げた、後に小さな大投手とよばれるようになるカープ初代エース・長谷川良平を先発に立てた。

 

 167センチと小柄な長谷川であったが、この試合、めいっぱい体を使って投げ込む姿に注目が集まった。

 

<「カープは掘り出しものをみつけたものだなあ」。中日ベンチのなかからは、「敵ながらあっぱれ」という讃辞があちこちでささやかれていた>(「カープ十年史『球』27回・読売新聞」)というのだ。

 

 こうした中日の見立て通り、長谷川は三回までを危なげなく打ち取った。しかし、一安心したのか、四回表の中日の攻撃で、杉山悟のツーランを含む、3点を奪われた。

 

 この裏、ここまで地元廣島シリーズで2連勝と気を吐いた打線の中で、白石敏男(のちに勝巳)はともにヒットを打って調子も上向いていた。さあ、とばかり打席にたった白石だった。

 

 草創期初年度から、白石はプレーイング・マネジャーとして、助監督の肩書を背負いながら、グラウンドでは絶えずチームのリードオフマンでもあった。内野の要であるショートを守り、一番を打つことが多かった。

 

 白石は、巨人時代から一番バッターとしての鉄則を心得ていた。このことは、白石本人の著書である『背番8は逆シングル』に詳しい。

 

 当時、巨人の監督である藤本定義が白石に徹底して求めていたことの一つに出塁への貪欲さがあった。

 

<トップバッターは、試合が始まると一番先に出ていくバッターだ。四球でも、ヒットでも、まず塁に出ることを考えにゃいかん>(『背番8は逆シングル』白石勝巳・ベースボールマガジン社)

 

 藤本の教えを貫いた白石が現役18年間で積み重ねた四球は936個にもなる。白石は一時期、左目が網膜剥離ではないかと診断されたこともあり、目に爆弾を抱えていたとされる。あまり注目を浴びない四球の数字であるが、自身の著書でも認めていたようだ。

 

<これもかなり多い方である>(『背番8は逆シングル』・ベースボールマガジン社))

 

 余談であるが、白石が抱えていた網膜剥離は、ホームゲームが開催される広島において、プレーできることは幸運をもたらした。ナイター球場ができるのが遅く、デーゲームが多いため、日中の試合でボールがよく見えたことも幸いしたとされている。

 

 さて、白石の打席に話を戻すとする。彼はいつもながら、早めに打ってでることはなかった。藤本の教えを守ったのだ。ワンストライク、ツーボールの後の4球目だった。

 

<杉下は、白石の食い下るような目つきに気押された><1-2からの四球目、低めを狙った球がうわずった。白石はすかさずたたいた>(共に「カープ十年史『球』27回・読売新聞)

 

 打球はぐんぐんのびた。<白球は板囲いの外野観覧席を越して、草むらまで飛んでいった>(「カープ十年史『球』27回・読売新聞)

 

 白石の記念すべきホームランによって、1点を返し、1対3として追いすがった。

 

 この後、長谷川も気持ちが乗ったのか、懸命に力投を続けた。しかし、六回と七回に1点ずつ許して、終始、中日がリードした。カープも粘りをみせ、8回、田中成豪、岩本章の連打の後、中日、杉下の暴投があって、1点を返してねばった。だが、一歩及ばずでゲームセット。カープ初のホームランの勢いがありながらも、勝利は逃してしまった。

 

 この日が、長谷川良平にとっては初の公式戦だった。初先発の舞台であったが、5点を奪われた。しかしながら、マウンドを譲ることなく完投したことから、長谷川はプロでやれることを実感した日にもなった。

 

 カープは打つべき人が打ち、投げるべき人が投げ、しかも完投できたことから、上り調子になるかに見えた。

 

 しかし、その後の試合は惨憺たるものだった。白石のホームランが出た中日戦以降3連敗を喫すると、その後、3月23日に後楽園で阪神と対戦(*1)。阪神キラーの武智が好投して、3対2で接戦をものにした。しかし、以降は4月9日の巨人戦までずっと負け続けるという9連敗を喫したのだ。

 

 この時点で白星は阪神相手の2勝と、国鉄からあげた1勝であり、17試合戦ってわずか3勝という厳しい結果だった。勝率にして1割7分6厘という体たらく。とてもプロ野球と呼べる戦力ではなかった。

 

 阪神とは五分の戦い

 この期間、唯一面目を保ったといえるのが、阪神との対戦で、2勝2敗と勝率5割を保っていた。ただし、これには理由があった。阪神は前年オフにプロ野球がセ・リーグとパ・リーグの2リーグに分かれる際、当初2リーグ制へ向けた新球団参入に賛成か反対かの立場を明確にせずにいた。これは大阪を拠点にする毎日新聞に気を遣っていたとされる。

 

 当時、鉄道事故が多かった戦後復興の時代である。親会社が鉄道会社である阪神は、事故のたびに新聞に大きく書き立てられたは困るとばかり、毎日の様子をうかがう立場にあった。

 

 一方、毎日新聞は2リーグ制を実現するための代表格として、新設球団の参入に賛成の立場を取り続けていた。そこで阪神を誘引したものの、阪神は伝統の一戦といわれた巨人阪神戦を残したいという思いから、2リーグ制に反対し、新規参入には反対の立場をとった。これに怒り心頭であった毎日新聞は、新規参入に賛成するチームらと結託してパリーグを結成した。

 

 結果、阪神は伝統の一戦を残すため、同じく新規参入に反対していた巨人らとセントラル・リーグを結成した。こうして、セ・パに分裂した経緯から、新しく誕生した毎日新聞を親会社とする毎日オリオンズ球団は、阪神から兼任監督の若林忠志を筆頭に別当薫、土井垣武、呉昌征ら主力選手をごっそり引き抜いたという訳だ。

 

 主力選手が抜けた阪神の戦力低下は著しく、またカープ初代監督・石本秀一の古巣でもあり、石本はおおよその戦術を知り尽くしていた。そのこともあってカープは阪神戦では五分の戦いを見せたのである。

 

 一方でカープは、セントラルの雄である巨人軍にはなかなか勝てなかった。4月9日、広島総合球場での巨人戦でも、長谷川が好投したものの3対5で敗れ、この時点で1勝もできなかった。このようにカープは草創期のシーズンは、阪神にはなんとか勝てるものの、巨人にはまったく勝てないというスタートを切ったのである。

 

 泥沼脱出のグランドスラム!

 カープは阪神にしか、勝てないのか--。チームにはそんな危機感もあった。新球団にとって最初のシーズンにいきなりの9連敗である。試合内容も若手の凡ミスやエラーから、ここぞという場面で失点し、僅差で競り合ったところで勝てない試合ばかりだった。

 

<この頃の広島は、若手選手が各チームの主力選手に完全に貫禄負けしていて、すくみ上がっていたともいえるほどで、そのために勝てる試合を逃したことも多かった>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和34年12月28日)

 

「ついに10連敗してしまうのか」「カープも危ないのう……」。監督以下、選手らは落胆の面持ちで、球団存続への危機感まで漂わせていた。

 

 この後、試合の巡りあわせに救われたのか、4月11日は甲子園に移動しての阪神戦となった。五分に戦える阪神戦である。「10連敗」の不安は少しずつ小さくなっていく。不思議とカープナインは、この日こそはと思いも芽生えていた。

 

 阪神相手の2勝はどちらも阪神キラーとして"虎殺し"の異名をとった武智修があげていた。武智なら勝てる--。そんな思いもありカープは初回に先制し、2回にも2点を奪い、試合をリードした。マウンドを見つめる首脳陣の期待に沿うように、武智は初回と2回を0点で抑えた。

 

 3回表、武智は投げるだけでなく、バットでも活躍した。ヒットで出塁し、坂井豊司、白石敏男が連続でフォアボールを選んで、ツーアウトながら満塁のチャンスを得た。次のバッターは、阪田清治である。

 

 阪田は兵庫県の滝川中学出身であった。この日、観衆はわずか3000人程度であったが、甲子園での阪神戦ということで、出身校からもほど近く、張り切っていたのだろう。

 

 阪田は阪神のピッチャー駒田桂二の初球をたたいた。打球はフラフラとセンター前へ飛んだ。この時、センターを守っていた後藤次男はつんのめるようにして前進する。次の瞬間、カープにとって、奇跡ともいうべき慶事が起きた。打球が後藤のグラブと甲子園のグラウンドの間をすり抜け、外野フェンスに向け転々と転がったのだ。

 

「回れ、回れ!」とベースコーチだけでなく、ベンチにいる選手らも一気にヒートアップした。満塁の走者はもちろん、打者走者の阪田も懸命に走った。三塁ベースを回って、ホームイン。カープ史に残る最初の満塁ホームランは、なんと、ランニングホームランとなった。

 

 とりたてて足が速い訳ではない阪田であったが、ダイヤモンドを一周して駆け抜けた阪田を石本監督がねぎらった。

 

<「よう走ったな」>(「読売新聞」カープ十年史『球』第28回)

 

 石本監督は、我が子を称えるように目じりを下げたというから、この一打への思いは他ならぬものだったろう。これで7対0、俄然勢いづいたカープナインである。

 

 ところが阪神も食い下がる。初代ミスタータイガース藤村富美男が2本のホームラを放って猛追。カープは武智がなんとか踏ん張って投げ切り、8対5で虎の追撃を振り切った。記念すべき満塁ホームランによって、まさに"九死に一勝"を得たのである。

 

 阪田は甲子園のお膝元ともいえる滝川中学から戦前、阪急に入団し、南海(グレートリンク)を経て、ノンプロの社会人野球に転身。そこからカープに入団した。チーム創設から2年間、カープでプレーした後、阪急に戻り、1年で引退したが、阪田の球歴において、このランニング満塁ホームランは一番輝かしい記録となった。まさに故郷に錦を飾った格好である。

 

 さて、どたばた続きの「カープ初のシーズンに向かう編」は、今回で一旦、終了とさせていただこう。次回は「カープ初年度の苦難編」へと移る。カープが初年度、なぜ勝てなかったのか。その理由が明白となった証言と、それを裏付けるあるデータを紹介しよう。次章、乞うご期待。
(つづく)

 

【参考文献】 「カープ十年史『球』27回・読売新聞」、『背番8は逆シングル』白石勝巳(ベースボールマガジン社)、「直近は小久保、イチローも達成!激レアなランニング満塁ホームラン」(Number Web・広尾晃)
【注記】 *1/昭和25年、26年はフランチャイズ制度が確立しておらず、セントラル・リーグ連盟が主催して、全国各地の球場で試合を行っていた。よって、後楽園で広島対阪神戦が行われた。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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