日本勢の不振が続いた昨年の世界柔道選手権(2007年9月13〜16日、ブラジル・リオデジャネイロ)、男子無差別級の棟田康幸(警視庁)が5試合オール一本勝ちという充実の内容で優勝を果たした。日本男子に唯一の金メダルをもたらすとともに、北京五輪代表権争いでも大きくアピールした棟田に、二宮清純がインタビュー。2007年を振り返っての思い、北京五輪イヤーとなる2008年の抱負、さらには柔道へ思いを熱く語った。(第2回)


二宮: それにしても、100キロ超級や無差別級に出場する海外勢は、身長2メートル級の大男ばかりでしょう。相手から受ける威圧感もすごいのでは?
棟田: それはまったくないですね。畳に上がって試合が始まった瞬間にはもう、相手が2メートルだろうが、200キロだろうが関係ないです。目の前の相手を投げることだけ考えています。

二宮: 世界選手権で優勝した時、棟田選手にとって父であり柔道の師でもある利幸さんからの第一声は?
棟田: 「ようやった」と。それだけですね。あまり父親から褒められることはないですからね。

二宮: お父さんから柔道の手ほどきを受け、背中を見て育ってきたわけですよね。
棟田: はい。父は恩師であり師匠ではありますが、その前に、自分にとってライバルだと思っていました。柔道の戦績や強さの面では、父を抜いたと言えるかもしれないですけど、一人の人間として男としては、まだ勝てないと思っています。
 昔は柔道の成績でも父にかなわなかったので、周りから私は「棟田先生の息子」と言われていたんです。それが、高校3年生の頃を境に、父が「棟田選手のお父さん」と言われるようになったそうです。それで自分でも調子に乗って「オヤジを抜いた」と思っていた。でも大学を卒業して社会人になってから、父のすごさをあらためて感じるようになりましたね。

二宮: それはどういう部分で?
棟田: 父は誰からも信頼されて、尊敬されている。今、地元・愛媛で道場を開いているんですが、あのような大きな道場が建てられたのは、父の存在があって、周囲のさまざまな協力があったからこそだと思います。例えば今、自分が「道場を建てたい」と周りに声をかけたときに果たしてあのような大きい道場が建つだろうか……。そう考えると、やはり今の自分の力ではまだまだだな、と。父のように周囲の皆さんに協力してもらえるような偉業は成していない。やはり一人の人間として男として、まだまだ父のことは超えられないなと感じますね。

二宮: なるほど。お父さんを超えるためには、やはり五輪に出場して金メダルを獲らないといけないですね。
棟田: そうですね。それで父親に一歩でも近づきたいですね。父から最後に「お前には負けたよ」と言ってもらえたら、自分自身もすごく嬉しい気持ちになると思います。

二宮: ところで棟田選手は柔道の名門・講道学舎の出身ですね。厳しいことで有名ですが、講道学舎出身者の絆も固いでしょう?
棟田: はい。講道学舎の先輩方は、自分にとって本当の兄貴やオヤジのような存在ですね。今でもみんなで集まるときは、年の差関係なく盛り上がります。

二宮: 棟田選手は自ら希望して講道学舎に入門したそうですね。逃げ出したくなることはなかった?
棟田: 負けず嫌いですし、途中で投げ出すのが嫌いだったんです。「きつい」「苦しい」ということはありましたけど、「やめたい」「逃げたい」と思うことは一度もなかったですね。

二宮: 親元を離れて上京した頃など「愛媛に帰りたい」とホームシックで涙が出ることは?
棟田: あまりなかったですね。愛媛に帰ったとしても、厳しい生活が待っていますし……(笑)。

二宮: そうか、愛媛に戻っても、お父さんの指導を受けなければならない、と。東京でも厳しい、愛媛に帰っても厳しいわけですね(笑)。
棟田: はい(笑)。でもやはり、地元でずっと父親に教わるよりも、東京で厳しい環境の中で鍛えてもっともっと上を目指したい、と、途中から意識が変わっていきましたね。

(続く)


※この記事は「二宮清純の我らスポーツ仲間」(テレビ愛媛)での対談を元に構成したものです。

棟田康幸(むねた・やすゆき)
1981年2月10日、愛媛県松山市出身。警視庁所属。小学校卒業後、柔道の名門「講道学舎」へ入門、弦巻中学校−世田谷学園高校−明治大学。03年の世界選手権100キロ超級でタメルラン・トメノフ(ロシア)ら強豪を破り金メダルを獲得、22歳で世界の頂点に立った。04年アテネ五輪代表は逃すが、05年世界選手権100キロ超級銀メダル、07年世界選手権無差別級金メダルと世界トップの実力は証明済み。170センチ。4段。




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