現地時間11日、マスターズ・トーナメント最終日が、アメリカ・ジョージア州のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで行われた。最終日を2位と4打差の首位で迎えた松山英樹(LEXUS)が通算10アンダーで初優勝。松山は10度目のマスターズで、日本人男子初の海外メジャー制覇を成し遂げた。彼の恩師である東北福祉大・阿部靖彦監督に、当HP編集長・二宮清純がインタビューしたのは8年前だ。当時の原稿を再掲載する。

 

(2013年5月7・14日号『ゴルフダイジェスト』に掲載された原稿です)

 

 池田勇太や松山英樹ら多くのプロゴルファーを育てた東北福祉大学ゴルフ部監督・阿部靖彦が大学時代までは野球選手だったことは広く知られているが、野球からのゴルフ転向組は少なくない。

 

 思いつくままに名前をあげても尾崎将司、尾崎健夫、渡辺司、飯合肇、三好隆……。ゴルフにとって野球は一大選手供給源である。

 野球上がりのゴルフ指導者も少なくない。古くは“新田理論”で知られる新田恭一、彼の弟子にはジプシーの異名をとった後藤修がいる。

 阿部が彼らと一線を画すのはゴルファーとしてのキャリアがほとんどなく、それゆえに技術指導に偏らないことである。

 

 これについて、本人はどう考えているのか。

「監督になりたての頃は『オマエ、どうせゴルフ知らんだろう?』と面と向かって言われたこともあります。僕は正直に言いました。『ええ、知りません』と。

 別にゴルフを知らなくたってウチはプロの集団ではないし、学生たちのクラブ活動なんだから、誰がやったって一緒だろうという思いがあります。

 だから、選手たちには、こう言います。『僕は大学の教員として、また先輩としてキミらを指導するんだ』と。ゴルフに関しては我流でズブの素人ですよ。

 そんな僕がああだ、こうだと言ったところで説得力はないし、今さら教えようなんていう思いもありません。だって、二宮さん、そうじゃないですか。ゴルフは最終的には自分で考え、自分でやらなきゃいけない競技でしょう。

 それをバックアップし、環境を整えるのが僕らの仕事。その意味ではコーチというより、マネジャーだと思っています」

 小気味いいほどの割り切りである。てらいがなく、ゆえに言葉がストンと胸に落ちる。

 

 コーチよりもマネジャー――。

 かつて、同じようなセリフを口にした野球人がいた。99年に72歳で他界した根本陸夫である。

 広島、クラウン―西武、ダイエーなどで監督を務めたが、むしろ根本の本領はGM職において発揮された。

 プロ野球界における日本初のゼネラル・マネジャー。それが根本の位置付けである。

 

 今から19年前に行ったインタビューで、根本は私にこう答えている。

――根本さんはフィールド・マネジャー(監督)とゼネラル・マネジャー(GM)のどちらがお好きなんですか?

「どっちかというと後者の方だろうね。まぁGMともなる営業的なセンスまで要求されるため、それよりは仕事の幅が狭いと思うけど。僕個人は球場の経営よりも編成の方が向いていると思う。勝ち負けの大部分は編成部門の力で決まるからね。ある意味で編成というのは、それだけやり甲斐のある仕事なんですよ」(『月刊プレイボーイ』94年4月号)

 

 この根本こそ、学生時代、阿部が最も影響を受けた指導者の1人なのだ。

 

 本題に入る前に、阿部の野球選手時代を振り返ろう。秋田・大曲農を卒業した阿部は東北福祉大に進んだ。

 同大は、今でこそ佐々木主浩や斎藤隆、金本知憲、和田一浩らを輩出した全国区の強豪だが、阿部が入学するまでは明治神宮野球大会に1度出場しただけの、全国的には無名の学校だった。

 

 阿部の球歴も華々しいものではない。大学1年の冬に髄膜炎にかかり、それが元で選手生活に見切りを付けている。

 その後は学生コーチや寮長など、いわゆる裏方としてチームを支えた。マネジャーとしての基礎は、この頃、身に付けたものかもしれない。

 根本は野球部長の大竹榮(現東北福祉大野球部、ゴルフ部部長)と仲が良かった。近鉄で長くスカウトを務めていた根本は全国各地に顔見知りのアマチュア関係者がおり、大竹もその1人だった。

 大竹は根本と酒席をともにする際、必ず阿部を同席させた。これと見込んだ男への、いわば“無言の帝王学”だった。

 

 振り返って阿部は語る。

「今でも忘れられない根本さんの教えがあります。根本さんは『オレと会う時は、オマエ、必ずテープレコーダーを持ってこい』と。要するに根本さんと他の方との会話を録音して、帰ったら、しっかりノートに書けと言うんです。

 しかし、若僧だから、全てを理解することなんて、土台、無理。だから話がわからなくなると、『すいません、トイレに行ってきます』と言って、トイレの中で一生懸命、調べたりメモを取ったりする。この作業はものすごく勉強になりました。

 また、根本さんは秘密のノートを10冊くらい持っていた。全国各地の人脈が、そのノートには全て書き込まれていました。実は僕だけ、そのノートをこっそり見せてもらったことがあるんです。

 今、僕が学生たちに伝えていることの多くは、根本さんから教わったことです。それが根本さんへの恩返しだと思っています」

 

 西武の管理部長時代、オーナーの堤義明が根本を評して、こう語ったことがある。

「根本のまわりには、いつも人の輪ができる」

 

 言葉は悪いが、人たらし。根本には一度会ったら、また会いたくなるような不思議な人間的魅力があった。座談の名手であることに加え、義理堅いのだ。しかもサービス精神旺盛ときている。

 それまで散々、根本の悪口を言っていた人間が、会って話をしているうちに徐々に引き込まれ、やがて“オヤジ”と慕うようになった例を私はいくつも知っている。

 

 プロ野球で通算224勝をあげた工藤公康の父親もその1人だった。

 甲子園でノーヒット・ノーランを達成した工藤は、多くの球団からマークされていた。しかし、父親の強い意向で、卒業後は社会人野球の熊谷組に進むことになっていた。

 

 ところがドラフト会議で西武が6位で指名したものだから、周囲は西武との密約を疑った。

 だが、これは事実ではない。密約が存在していたら、18歳の少年が翻弄されることはなかった。

 

 工藤は語ったものだ。

「忘れもしませんよ。根本のオヤジに初めて会ったのは、家の近くの『かに道楽』。ウチのオヤジが僕の横に座り、根本のオヤジが対面に座っている。2人ともにらみ合ったまま視線をそらそうとしない。一触即発とはあのことです。なにしろ一言も話さないんだから。せっかく目の前にカニがあるのに箸もつけられない。ヤクザの手打ち式じゃないのに……と思いましたけどね(笑)」

 

 それから、しばらくたったある日のことだ。

「夜中に突然、叩き起こされ、こう告げられたんです。『オマエを西武にやることにした。今日から根本さんがオマエの東京の父親だ』と。家には根本のオヤジも来ていて、テーブルにはビール瓶の山ができていましたよ。どこかで話がついていたんでしょうね、きっと……」

 

 私が阿部に根本の影を見るのは、人たらし、と言って悪ければ、人の気持をワシ掴みにする、その特異な能力の根っ子にある父性だ。

 

 池田勇太との出会いからして、そうだった。

「勇太はね、高校の時から態度がデカかった。当時、勇太はJGAのナショナルチームのメンバーで、僕も委員をしていた。ある時、カッパを着たまま、競技委員室に入ってきたんです。

 それで、僕は怒鳴り上げました。『こら、勇太! なんだオマエ、その態度は! 目上の人にはカッパくらい脱いで挨拶しろ!』と。すると『すいません』と言って、ペコリと謝りましたよ。本当は素直な子なんだと、すぐにわかりましたね」

 

 福祉大への進学は、阿部によれば「おかあさんの意思が9割」だったという。

「勇太を小さい頃からひとりで見てきた母親が僕に言いました。『監督、ウチの勇太はプロになれなくてもいいんです。ただ、4年間で一人前の人間にしてください』って。僕も言いましたよ。『お母さん、それだけは約束します』と。だから、彼には厳しく接しました。あれは大学1年の日本学生選手権でのことです。本人は“当然、オレが優勝する”と思っていた。ところが、勝てなかった。それが余程、悔しかったらしく、人目もはばからずに泣いているんです。

 それで僕は言いました。『オマエ、何を泣いているんだ。オマエより長くゴルフをやっている人間なんていくらでもいる。簡単に勝てると思うな。そんな甘い世界じゃないんだ!』って。本人は『わかりました。来年から見ていてください』と殊勝な面持ちで言いましたよ。高かった鼻をへし折られたんでしょうね。それからですよ、彼が本当に変わったのは……」

 

 今年4月にプロ転向を表明した松山との出会いも、彼の高校時代に遡る。プロが大学進学かで揺れている時、こんなキラー・メッセージを送っている。

「松山の場合、父親は高校を出たらプロに行かせたかったんです。お父さんは松山が4歳の頃からゴルフを教えており、日本アマにも出場するなど、地元ではそれなりに名前の売れたプレーヤーでした。

 しかし本人によれば『僕のまわりにはゴルフ仲間しかいない』と言う。それで、僕は言いました。『今、プロに行っても、オマエならそこそこの選手にはなれるだろう。日本ジュニアも勝っているしな。でも、ナマイキな言い方をさせてもらえば、オマエは日本で勝って喜んでいるようなレベルの選手じゃない。世界で戦い、そして勝つ。そういう選手になりたいんだったらウチにきてやったほうがいい』と……」

 

 世界という言葉が松山には新鮮かつ強烈だったようだ。高校(明徳義塾)のある南国・高知から杜の都・仙台へ――。

 

 まず阿部が松山に課したのは将来への投資、体づくりだった。

「ウチは12月、1月、2月は一切ラウンドさせないんです。この期間は体を休め、次の年に備える準備にあてるんです。

 具体的には1時間はランニングだけ。クラブは一切、握らせない。夜は夜で、2時間、みっちりと室内練習場でのトレーニング。そりゃ沖縄や九州の人は、年がら年中、ラウンドできるのかもしれない。でも、僕はそれがうらやましいとは思わない。冬は体や頭を鍛える期間でもあると思うからです。

 こうした練習を、1人や2人でやっていると妥協しがちです。だけど全員でやっていると逃げられない。部員50人、男子も女子も、皆に同じことをやらせる。“オレが抜けたらカッコ悪い”と思わせれば、しめたものです。

 下半身は大切です。スタミナは重要です。今のゴルフは道具もボールもいいから、よく飛びます。でも、プロは4日間、戦い抜かなければ意味がない。

 もちろん松山にも、そのことを言いました。『世界で勝とうと思うんだったら、まずは最終日までの4日間、しっかり戦う体づくりをしような』って。今の彼の体つきを見てくださいよ。4年前とは全然、違っていますから」

 

 東北の雪国出身というわけでもあるまいが、人としての阿部の佇まいはジャズかクラシックか演歌かと問われれば演歌だ。人間関係が濃密で、指導には土の香りがする。古き良き昭和を背負った指導者という言い方もできよう。

 そして、満を持して発するキラー・メッセージ。いつか阿部も人生の師と仰ぐ根本同様、育てた選手たちから敬愛の情を込めて“オヤジ”と呼ばれる日が来るのかもしれない。