大矢歩は、群馬県東部にあるみどり市で生まれ育った。両親が教員で、6学年上の姉がいた。姉とは年が離れていたこともあり、同学年の子どもたちとよく遊んだ。家でままごとをするよりも、外で身体を動かすことを好む少女だった。

 

 父・健二は当時をこう述懐する。

「歩は小さい頃から外で遊ぶのが好きで、“家にいないなぁ”と思ったら、外で自転車に乗っている。人前に出ることが得意ではないけど、本当に運動が好きでした。負けず嫌いで、男の子に混じってサッカーやドッヂボールをしていましたね」

 

 ピアノを習っていたが、スポーツで最初に始めたのは、スピードスケートだった。小学3年時に桐生スケートクラブに入団した。低学年の時に、スケート教室に参加したことがあり、クラブのコーチから誘われた。在籍中は、大矢によれば「地域の方たちにまったく敵わなかった」というが、「スケートが楽しくて続けていました」と高校2年時までリンクに通う生活を送った。

 

 小学4年時に学校の友達からサッカーに誘われ、地元のFC笠懸84に入った。平日はスピードスケート、土日はサッカーという“二足の草鞋”がスタートした。「身体を動かすことが好きで、どちらも楽しかった」。サッカーでは男子に混じってボールを蹴り、小学4年から試合の出場機会を得た。

 

 サッカーにはすぐに夢中になった。家に帰ると、近所のコンクリートの壁に向かって、暗くなるまでボールを蹴る日々を送った。更なる高みを目指し、大矢は浦和レッドダイヤモンズ・レディース・ジュニアユースのセレクションを受けた。しかし結果は二次審査で不合格。「自分の甘さがあって落ちてしまいました。もっとしっかり臨めば良かった……」と、自らの実力をうまくアピールすることはできず、なでしこリーグ(日本女子サッカーリーグ)の下部組織入りは叶わなかった。

 

 中学入学と共に中高生を中心とした女子のクラブチームであるホワイトスター高崎(現・なでしこリーグ2部バニーズ群馬FCホワイトスター)に入団した。そこで出会ったのが、大矢が今も「私をずっと信じてくれた」と恩師として慕う石川裕介氏だ。当時はホワイトスターの監督で現在は営業本部長を務めている。石川氏は、大矢を初めて見た時の印象をこう語る。

「初めてウチの練習に参加した時、“いい選手だな”と感じましたね。当時から歩は考えるスピードが速い選手。芯のしっかりした技術を持っていました」

 

 中学ではクラブチームをメインでサッカーをし、その練習に行けない日には笠懸中のサッカー部の練習に参加した。サッカー中心の生活にシフトしつつあったが、スピードスケートも続けていた。当時のことを大矢はこう振り返る。

「両立は苦ではなかったですね。ホワイトスターの練習場が家から遠かったので、送り迎えしてくれた両親は大変だったと思います」

 

 小学校の時はFWだった大矢は、ホワイトスターでも同じポジションで起用された。スピードスケートで鍛えられた足腰でシュート力もあった。それでも「パスに非凡なものを感じた」という石川氏は、彼女が2年となった時にボランチへの転向を命じる。

 

 巡ってきたドイツ行きのチャンス

 

 ボランチに転向すると、彼女の才能は開花した。再び石川氏の談だ。

「スルーパスはえげつなかった。ゲーム形式の練習に私が参加した時、単純な位置にいたらパスをくれない。当時私は35歳でしたが、“35歳のおっさんを走らせるんかい!”と思った記憶がありますね。当時、1学年上にいいFW選手がいたので、ゴールを量産していましたね」

 大矢自身も司令塔という役割を好んだ。「いいパスを出し、かつ自分でも得点が取れるタイプが好きでした」。憧れたのもアンドレス・イニエスタ、遠藤保仁、香川真司と中盤の選手ばかりだった。

 

 2008年には日本サッカー協会の『ナショナルトレセン女子U-15』に召集される。このメンバーの中には1学年上の田中陽子、京川舞、猶本光、高木ひかり、道上彩花、増矢理花、三宅史織ら、のちのなでしこジャパン(サッカー日本女子代表)に選ばれる選手たちと共に名を連ねた。また同学年には、18年平昌オリンピックのスピードスケートで3個のメダルを獲得した髙木美帆もいた。

 

 大矢は中学3年時にはチームを全国大会に出場に導いた。ボランチに位置しながら「困った時には歩が点を獲ってくれた」(石川氏)と、エースとしてチームを牽引した。全国大会本戦では予選リーグ敗退に終わったものの、「個人的には、そこまで大きな差を感じませんでした」と手応えも掴むことができた。

 

 共愛学園高校に進学してからは、部活に入らず、所属するチームをホワイトスターに絞った。

 そして大矢に高校1年時に転機が訪れる。ある日、練習試合を戦った男子ジュニアユースチームの監督にこう声をかけられたというのだ。

 

「ドイツでテストを受けてみないか?」

 

 エージェントを紹介され、思わぬところでドイツ行きのチャンスが巡ってきた。「“行きたい”という思いしかなかった」と大矢。石川氏も彼女の背中を押した。

「『海外でプレーしたい』とは昔から言っていたんですよ。だから『行ってたらいいんじゃない』と話しました。私は通用すると思っていましたから。それに本人は秘めた闘志がすごくあった。指導者として、その火を絶やしてはいけないと考えたんです」

 

 一方、大矢家の様子はこうだった。「父は行ってもいいと言ってくれましたが、母には猛反対されました」(大矢)。それも当然と言えば当然だ。縁もゆかりもないドイツ・デュイスブルクに未成年の娘を預ける不安も理解できる。それでも大矢は海外に挑戦したかった。母に熱意を伝え、説得した。

 

 高校1年になる直前の春ごろ、ドイツに行き、1週間練習参加をした。

「言葉が通じない不安はありましたが、楽しみな気持ちの方が大きかった。実際にプレーをしてみると、スピードや体格も違っていた。シュートの威力も違い、衝撃を受けました」

 レベルの違いを痛感した大矢だったが、“ここでやっていけば、もっとレベルアップできる”という思いも強くしたのも事実だった。日本に帰って、しばらくすると「合格」の通知が届いた。

 

「スピードスケートでは全然敵わなかった。“サッカーをやる”と決めたきっかけだったかもしれないです」

 スピードスケートは県上位レベルに過ぎなかった。大矢は留学するにあたり、サッカーに専念することを決断した。

 

 ドイツのシーズンスタートは夏から。その時期に合わせ、海を渡った。ところが、異国の地で彼女に思わぬ事態が待っていた――。

 

(第3回につづく)

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大矢歩(おおや・あゆみ)プロフィール>

1994年11月8日、群馬県生まれ。小学4年でサッカーを始める。小学生時はFC笠懸84、中学・高校時には群馬FCホワイトスターと地元のジュニアチームに所属した。また小学3年時から高校2年時まで桐生スケートクラブにも在籍し、スピードスケートとの“二足の草鞋”を履いていた。高校2年の夏、ドイツのデュイスブルク行きを機にサッカーに専念。高校卒業後は愛媛の環太平洋大学短期大学部に進学した。愛媛FCレディースに加入し、1年目から出場機会を得た。その後は主力として活躍。19年、なでしこリーグ2部優勝、1部昇格に貢献した。日本女子代表(なでしこジャパン)には17年初招集され、9試合に出場した。ポジションは主にFW、MF。背番号7。身長160cm。利き足は右。

 

(文/杉浦泰介、写真/©EHIMEFC)

 


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