カープ創設初年度はなかなか勝てなかった。白石勝巳がチーム初のホームランを福山市三菱球場で放ったものの、試合は力及ばす惜敗した。また初の満塁ホームランは前回に記したように阪田清春が甲子園球場で記録した満塁"ランニング"ホームランだった。この阪神戦は勝ったものの、その前日までは9連敗とカープは泥沼の日々だった。


 カープはやっていけるのか--。ファンがそんな不安にかられたのは当然のことだろう。また「球団初」という冠はつくものの、白石のは福山市三菱球場、阪田のは甲子園で放たれ、広島総合球場では記念ホームランを目にすることがなかった地元ファンは、なんとももどかしい気持ちであったに違いない。


 こうなると地元ゲームでのドラマを期待するというものだ。

 

 地元初のグランドスラム

 そうした状況の中、初代キャプテンを任された辻井弘による一打は、地元のカープファンの心を躍らせるものになった。

 

 辻井はカープ初代監督石本秀一の秘蔵っ子ともいえる選手で、カープに入団する前年、1リーグ時代のプロ野球で石本の指揮する大陽ロビンスでプレーしていた。「広島に球団ができる」と石本から聞かされ、石本に吸引されるかのようにカープに入団した男だ。

 

 辻井は、後に石本がグラウンド外で、球団運営の資金集めに奔走する際には、助監督である白石を助け、プレーヤーながら、ヘッドコーチ的な存在としてチームを牽引した。右投げ左打ちで、守備では主に一塁を守り、打順はクリーンアップを任され、四番に座ることが多かった。技のある器用なバットコントロールで広角にヒットを打ち分け、カープ初年度は打率2割9分4厘をマークし、チーム内首位打者だった。

 

 その辻井がカープに入団する前のことであるが、川上哲治らと首位打者を争った年があった。資料にはこうある。

 

<昭和23年の大陽時代には、青田昇、小鶴誠、山本一人(鶴岡)、川上哲治らと最後まで首位打者を争った>(「広島東洋カープ60年史」ベースボールマガジ社)
 結果は4位だったが、球界に辻井の名を知らしめたのが昭和23年のシーズンであった。こうした実績の裏には、名将・石本が見込んだのも納得できる目配り、気配りがあった。カープの大阪遠征時には、自宅に若手選手ら何人かを宿泊させ、遠征費にさえ事欠いていたカープの財政を支えた。

 

 辻井にこそ、カープ史に残る何かを期待したい--。こうしたファンの思いは自然な流れでもあったろう。

 

 4月19日、久々に地元に帰ってきたカープは、広島総合球場での対中日戦に臨んだ。この試合まで4連敗だったが、地元でのドラマを期待するファンは水曜日のデーゲームながら球場に詰めかけ、スタンドは満員であった。

 

<球場はウイークディにもかかわらず、万余のファンでぎっしりすしづめ>(「中国新聞」昭和25年4月20日)
<県営球場は一万八千人のファンをのんで超満員>(「カープ十年史『球』読売新聞・連載28回」)

 

 当時のプロ野球は、複数の球団で移動して行われており、第1試合は阪神対西日本、カープ対中日はその後の第2試合だった。

 

 中日は近藤貞雄を先発に立て、カープは長谷川良平で挑んだ。長谷川はスタンドの盛り上がりとは裏腹に、のっけから安打を許し、2回までに3点を失った。

 

 広島は長谷川を3点目が入ったところで諦め、老巧、中山正嘉にスイッチした。この中山はカープの考古学第21回で記した元喫茶店のマスターであり、中山はベンチの期待に応え、打たれながらも力投を続けた。

 

 広島はじりじりと追い上げ、6回表まで打ち合う展開が続き、スコアは7対5。中日も早めに近藤を諦め、かの杉下茂にマウンドを託すなど、両チームともに継投の接戦となった。

 

 さて、歴史の舞台となったのが6回裏のカープの攻撃である。1死満塁となったところで、中日は杉下からエース服部受弘にスイッチした。「この試合はいける」と踏んだ中日・天知俊一監督が、エース投入で勝負に出たというわけだ。

 

 広島のバッターは4番の辻井である。願ってもない役者の登場に、球場のボルテージは一気に上がった。

 

 服部の第一球、内角にグッと食い込んで落ちる、当時で言うところのドロップに対し、辻井は負けじとグッと踏み込んで強振した。打球は晴天の空に高々と舞い上がり、広島総合球場のライトスタンドのフェンス際にポトリと落ちた。

 

 次の瞬間、大歓声が--。

 

 辻井の逆転満塁ホームランである。4番とエースの真っ向勝負を制したのはカープだった。この日も地元では強し--を見せつけた。辻井がホームインすると、出迎える選手たちに先行するように、顔をくしゃくしゃにしたグラウンドキーパーの土岐修三が真っ先に抱き着いた。

 

 この土岐は球団創設時に、カープのグラウンドキーパーをかってでた人物であり、しばらくは奉仕活動としてグラウンド整備を続け、カープ草創期を支えた陰の男であった。その土岐が泣いた、泣いた。顔をくしゃくしゃにして泣いた。野球好きが高じ、広島総合球場でカープの試合がある日は、無給でありながらも整備を買って出た土岐は、後にカープの正式なグラウンドキーパー(後年にはカープ保安課主任)となった。

 

 息子の土岐晴紀氏によれば、「カープからのお金、アルバイト代は、3年間は一切なしでした」とのこと。まさに石の上にも三年である。この情熱が実り、プロのグラウンドキーパーにまで辿り着いた。カープ一筋を貫き、保安課主任を務め、退職までカープに尽くした。土岐が鬼籍に入ったとき、葬儀には広島東洋カープの2代目オーナー松田耕平氏が訪れ、弔辞を読んだという(土岐晴紀氏証言)。

 

 市民球団カープはこのように多くの地元民の情熱に助けられながら育っていくことになる。

 

 話を試合に戻そう。追いすがる中日は7回表に1点を返したが、中山は縦に割れるカーブを武器に踏ん張った。これに応えるかのように打線が八回裏に1点をダメ押しし、カープが10対8で勝利した。

 

 ファンの力との結晶となった辻井のホームランは、地元・広島で初の満塁ホームランであり、阪田の満塁ランニングホームランとともに、球団史に残る一打になった。

 

 地元で景気づけの一発に酔ったファンは、鯉のぼりの季節に向け「チーム状態も上がっていくはず」と意気軒昂だったが、翌日からカープはまたもや4連敗である。

 

 昭和25年のシーズン当初、こうした一瞬の輝きはあったものの、それが継続することはなかったのだろうか? 当時、苦しいながらもカープの快進撃なるものはなかったのか? それを月間の勝敗データからあたってみるとする。

 

 3カ月間の快進撃

 カープの初年度の成績は138試合を戦って41勝96敗1分、勝率2割9分9厘の8位となった。3割に満たない勝率で、首位の松竹からは59ゲーム離されての最下位である。年間を通じての成績が残せなかったのは、寄せ集めとか、現代では使われない言葉であろうロートル集団などと揶揄されたことからも納得できよう。

 

 かつての球団職員の渡部英之氏(故)が、「この59ゲーム差という数字ですが、これは59回試合をやって、59連勝しないと追いつけない訳ですから」と二葉公民館(広島市東区)で、熱弁をふるっていたが、名将石本をもってしても戦力のないチームはそれぐらい勝てなかったのだ。

 

 序盤の戦いでは白石の初アーチ、阪田の満塁ランニングホームラン、初代キャプテン辻井による地元広島での初のグランドスラムを記録したことは前述のとおりだ。ただ、こうした記録の中でも、3月と4月はとんと勝てず、2割程度の勝率である。

 

 ところが5月、6月と勝敗表を追ってみると、3月と4月で一度ずつしかなかった2連勝が、5月には4つもあった。6月にかけて3連勝し、4連勝も経験しているのだ。これは何か理由があるはず、と勝ち星を分析する上で、月ごとの勝率を見てみよう。

 

 驚いたことに5月と6月は勝率5割をゆうに超え、7月は引き分けひとつを挟んで、3連勝したこともあった。この時の引き分けが勝利に転じていたのならば、7月は4割の勝率となっていた。

 

 草創期の弱いカープは3カ月間にわたり善戦、いや、躍進していたのだ。なぜこの3カ月間はプロらしく戦えたのであろうか。

 

 このことを疑問に感じ、文献をあたってみると、この年を回顧している石本の記事が見つかった。石本はカープが経営に行き詰った創設2年目から、カープの現実を窮状として伝え続けるために、ペンを採り、中国新聞に載せていた。昭和26年3月21日からの朝刊で「廣島に育つ鯉」と銘うって三回シリーズの論説で、カープの初年度、昭和25年の窮状を振り返っている。

 

<当時、会社の株式募集成績は県出資の五百万円が入金しなければ継続不能という手持資金の枯渇から選手給料は遅配し(中略)>(「中国新聞」昭和26年3月23日)とあり、給料の遅配が起こっていたことが記されている。


 その中で、さらに石本は続ける。

 

<この危機も県当局の英断によって、五百万円の払い込みを完了し、ようやく窮地を脱することができたのである>(「中国新聞」昭和26年3月23日)

 

 要は、広島県の予算から執行される500万円(第8回カープの考古学一覧表参照)が、払い込まれ、選手らの給料が払える期間が訪れたのだ。

 

<かくて七、八、九月と無難に過ぎたが、十月に入って、試合収入は激減すると共に、給料も再び遅配を繰り返して、昨年末、第二期の危機が襲ったのである>(「中国新聞」昭和26年3月23日)

 

 石本の書いた記事では、7月から9月が無難に過ぎたと、振り返っている。この石本のいう、3カ月間の無難な時期というのは、勝率が5割超えのあった好調の3カ月とは、若干のずれはあるものの、この間は無難に給料が払われていたのではないか、と推測できる。

 

 当時、カープの1カ月の選手給料や経費支払いなど、月間の必要維持金額は、約100万円とされていた。県からの予算執行の500万円はカープ球団を一時的に潤すこととなり、初年度の快進撃といえる3カ月につながったのではないだろうか。

 

 つまり給料が払われた3カ月間は、快進撃とも言える勝率を残しているのだ。この「給料と勝率」の因果については今後さらに調べを深めていきたい。

 

 次回は初年度の快進撃である連続勝率5割を残した時期の試合の模様をお届けしよう。苦難続きの中でも、連勝というドラマが、幾度か起こるのである。乞うご期待。
(つづく)

 

【参考文献】 「広島東洋カープ60年史」(ベースボールマガジ社)平成21年7月1日発行)、「中国新聞」「廣島に育つ鯉(中)」(昭和26年3月23日)、「カープ十年史『球』読売新聞・連載28回」、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞)
【取材協力】 土岐晴紀氏(2018年12月9日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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