春夏連続の甲子園出場、加えて選抜では優勝投手となった久保尚志は、プロのスカウトからも注目される存在だった。しかし、彼は自ら進学を希望した。
「その年から大学への進学を表明した選手をドラフトで指名することはできなくなりました。僕がプロを志望すれば指名されていたかもしれません。でも、自分がプロになれるとは全く思えなかったんです」

 1996年4月、久保尚志は中央大学に入学した。近年では東都大学2部リーグに所属することの多い同大だが、1部リーグ優勝25回を誇り、これまで多くのプロ野球選手を輩出してきた伝統校だ。久保と一緒に野球部の門を叩いたのは13人。うち10人が甲子園経験者だ。

 ピッチャーは久保を含めて2人。もう1人は後にヤクルトスワローズに入団する花田真人だった。柳川高校(福岡)のエースだった花田とは、高校3年の選手権大会後に韓国で開催された三国親善試合(日本、韓国、米国)で日本選抜チームとして一緒に戦った仲だった。

「全日本の時にはお互いに既に中大に入ることが内定していたので、いろいろと話をしました。その頃からアイツは“プロに行く”という自分の信念をしっかりと持っていました。
 大学に入ってからも、それは変わりませんでした。中大の野球部は、それほど練習は厳しくないんです。だからこそ、自分をしっかりと持っていなくてはいけないのですが。花田は練習後も一人、自分で決めたメニューを黙々とやっていました。あそこまでやっていたのは同じ学年ではアイツくらいでしたよ。
 そんな花田の姿を見て、『すごいなぁ』と思いながら見ていました。でも、僕自身はその時、そこまで必死になれるような目標はなかったんです」

 久保は子どもの頃からそうだった。多くの野球少年がプロ野球選手になることを夢見るが、小学生の頃、既に「自分はプロになんかなれるはずない」と思っていたという。甲子園も高校入学当初は本気では考えていなかった。そして、大学でもまた「あんな世界(プロ)で自分は無理だ。野球はこの4年間が最後だろうな」と思っていた。

 開花した才能

 久保は大学ではなかなか芽が出なかった。ベンチ入りしても、彼に与えられた役割は敗戦処理。伊藤周作監督からは野手へのコンバートを勧められていた。だが、久保はピッチャーとしての自分にこだわり続けた。

 そんな久保に転機が訪れたのは3年の春だった。いつものように敗戦処理としてマウンドに上がった久保は、もうこれ以上どうしようもないというくらいボコボコに打ちのめされた。
「バッターに転向しろ」
 試合後、とうとうピッチャーのクビを宣告された。久保はうなづくしなかった。

 実は久保は高校時代、バッターとして高い能力を発揮していた。
 観音寺中央高校時代、唯一1年時からレギュラーを張り、3年時には主将としてチームを牽引した土井裕介。その土井が入学当初、久保のバッティングに度肝を抜かされたという。

「グラウンド後方には3階建ての校舎があるんです。ホームベースから校舎までは約100メートル。誰もそんなところまで飛ばすヤツなんかいないから、ネットも何もありませんでした。
 ところが、入学して間もなくの頃でした。バッティング練習をしていた久保の打球が校舎にまで飛んで、3階の窓ガラスを割ったんです。『とんでもないヤツがいるもんだ』と、そりゃもう驚きましたよ」

 また、観音寺中央が初出場した選抜大会前の記録では、当時プロ注目のNo.1スラッガー・福留孝介(大阪・PL学園)の高校通算本塁打数を7本も上回っていた。プロからの評価も高く、バッターとしては福留の次に久保の名を挙げるスカウトもいたほどだ。

 東都リーグではDH(指名打者)制が採用されている為、大学入学後、久保はほとんどバットを振ったことはなかった。だが、本格的にバッティング練習を始めてから2週間後、DHで出場した久保はいきなりホームランを放ってみせた。そしてその瞬間、久保は忘れかけていた感情を取り戻した。

「久しぶりに野球が楽しいと感じました。大学に入ってからはレギュラーとして試合に出場することはなかったので、そういった感情を味わうことができずにいました。でも、バッターに転向してようやくチームの中心として出場する機会を与えてもらい、野球の楽しさを思い出すことができたんです」

 その後、久保はファーストのレギュラーを掴み取り、クリーンアップの一角を担うようになった。そして4年の春、中央大は悲願の1部昇格を果たした。それは1989年春以来、実に20シーズンぶりのことだった。

 しかし、最後のシーズンとなった4年秋のリーグ戦で久保は極度のスランプに陥った。「監督から『大丈夫だから、気楽にいけよ』と言われても、考え始めたらどんどんどつぼにはまっちゃって……。やっぱりバッターとして2年以上のブランクがあったのは大きかったと思います。チームにも迷惑をかけてしまいました」

 久保の不調はそのままチームの成績となって表れ、中央大は最下位に終わった。しかし、1部・2部入れ替え戦で立正大学を下し、1部残留を決めた。これには責任を感じていた久保もホッとしたという。こうして、大学4年間が幕を閉じた。

 日本一への挑戦

 卒業後、久保は東京都中野区に本社のある鷺宮製作所に就職した。鷺宮製作所硬式野球部は近年メキメキと力をつけ、都市対抗野球大会や社会人野球日本選手権などでも顔なじみとなりつつある。若手の中にはプロを目指している選手もいるほど、同社のレベルは高い。そこで久保は1年目から主力選手として活躍。都市対抗にも出場し、東京都野球連盟からは新人賞を受賞した。

 2005年には主将として日本選手権に出場。初戦の三菱重工神戸戦に3−2で競り勝ち、大会初勝利という快挙を成し遂げた。
 さらに2回戦の伯和ビクトリーズ戦に6−1で快勝した同社は準々決勝で社会人野球の名門・日本生命をも7−2で下し、4強入りを果たした。決勝進出をかけて挑んだ準決勝は負けはしたものの、優勝した松下電器相手に3−4という好ゲームを演じた。

 今年の都市対抗でも32年ぶりに悲願の初勝利を収めると、新日本石油ENEOS、富士重工業と並みいる強豪を次々と破り、大会初のベスト4進出を果たした。久保自身も3本の2塁打を放つなどチームの勝利に貢献し、大会優秀選手に選ばれた。

「今年の都市対抗は社会人になって一番印象に残る大会となりました。特に32年ぶりの初戦突破は嬉しかった。序盤はリードを奪われていたのですが、中盤から1点ずつ追い上げ、8回に一気に6点を奪って逆転しました。4回で1−4になった時には正直、『あぁ、今年もダメか』と思ったんです。でも、そんな劣勢な展開のゲームを逆転勝ちした。それが自信となって勢いに乗ることができたんです」
 
 現在、野手で最年長の久保は、自分のこと以上にチームのことを考えるようになったという。
「最近になって、『ああしとけばよかった、こうしておけばよかった』と考えることがあるんですよ。そうした自分の思いを若手に伝えていけたらと思っています。
理想としては調子のいい自分が試合に出場できないくらい若い選手が育ってほしいんですけどね」

 そう言った後、少し間を置いて、久保はこう付け加えた。
「でも、伸び盛りの若いヤツらとの激しい競争に勝って、やっぱり自分が試合に出て活躍したいですね。そのうえで都市対抗、日本選手権で優勝したいです」
 表には決して出さないが、久保にはまだ「若いヤツらには負けていない」という自負がある。

「大学で終わりだと思っていた野球を社会人まで続けているのはなぜですか?」という問いに久保は一寸の迷いもなく、こう答えた。
「やっぱり野球が好きなんだと思います」

 久保尚志、30歳。年齢を重ねる度に高まる野球への情熱を胸に、観音寺中央時代以来の日本一に挑戦し続けている。

(おわり)

<久保尚志(くぼ・たかし)プロフィール>
1977年5月27日、香川県観音寺市出身。小学4年からソフトボールを始め、小学6年時には全国大会に出場した。観音寺中央高校では2年秋からエースとなる。春夏通じて初の甲子園出場となった3年春の選抜大会で全国優勝を果たす。夏も甲子園に出場するも、2回戦で敗退した。中央大学を経て、鷺宮製作所に就職。1年目からレギュラーを獲得し、活躍する。05年の日本選手権では主将としてチームを牽引し、ベスト4に。今夏の都市対抗野球大会では32年ぶりに初戦を突破。ベスト4まで勝ち進み、自身も大会優秀選手に選ばれた。






(斎藤寿子)
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