「優勝が夏だったら、最高だったのに……」
 次々と押し寄せてくるプレッシャーの波に耐えながら、久保尚志はそう心の中でつぶやいていた。
 春の選抜で初出場初優勝を果たした観音寺中央高校。大会後はマスコミにも大きく取り上げられるようになり、新聞や雑誌には必ずと言っていいほど『春夏連覇』の4文字が躍った。そんな中、久保はチームに違和感を感じ始めていた。

「選抜の後、明らかにチームは一つの方向に向いていませんでした。取材などでいつもちやほやされるのは、レギュラーの選手ばかり。控え選手の中にはそれがおもしろくないと感じている人もいました。特に口論とかあったわけではないのですが、なんとなくチーム内には亀裂が走っていた。普段通りに練習していても、みんな何かが違うなと感じていたと思います」

「お前ら、ちょっとでも悪いことやってみろ。すぐに週刊誌に書かれるからな。絶対に変な行動はするなよ」。学校からは執拗に注意を促され、選手たちの行動は制限されていった。
 さらに、久保はエース故の重責も背負わなければならなかった。
「コーチからは『負けたら、すぐに新聞に取り上げられるぞ』と言われていたんです。だから、もうずっとプレッシャーを感じながら投げていました」
 
 春季大会、県を制した坂出商業に5−6で敗れた観音寺中央は、夏に向けて練習を再開した。もちろん目指すは“甲子園”。選手は皆、それまでと変わらず、必死に白球を追い続けた。だが、何かが違っていた。「チームは一つになりきれていない」。そんなモヤモヤ感を拭い切れぬまま、夏の県予選が幕を開けた。

 チームの状態は決してよくはなかった。そしてまた、久保自身も調子を落としていた。めったに叱らない橋野純監督にも「しっかり放らんか!」「ピリッとしろ!」と喝を入れられるほど、ピッチングに精彩さを欠いていた。
 それでも組み合わせに恵まれた観音寺中央は順調に勝ち抜き、決勝へと駒を進めた。相手は県内屈指の強豪・高松商業。現在、千葉ロッテの神田義英が2年生ながらエースを張り、準決勝まで1失点の好投を演じていた。

 3回裏に1点を先制された観音寺中央は5回表にキャプテン・土井裕介の犠牲フライで追いついた。だが、神田を打ち崩すまでには至っておらず、明らかに打ちあぐねていた。
 1−1で迎えた8回表、1死1、2塁と観音寺中央は勝ち越しのチャンスを得た。すると、平凡なゴロを相手のショートが悪送球。これで1点を勝ち越した観音寺中央は、さらに2点を追加し、一挙に3点のリードを奪った。
 その裏、高松商に1点を返されるも、最終回は久保が無失点に抑え、観音寺中央が夏の甲子園初出場を決めた。

「よかったぁ……」
 優勝が決まった瞬間、久保はキャッチャーの森孝之と安堵感にひたりながら、泣いた。
「春の全国制覇よりも、この時の優勝の方が何倍も嬉しかったですね。プレッシャーに打ち勝って、自分たちの力で勝ち取ったという気持ちが強かった分、喜びも一入でした」

 涙を流したのは選手ばかりではなかった。優勝インタビューを受ける橋野監督の目からも大粒の涙がこぼれていた。
「監督が泣いている姿を初めて見ました。いつも冷静な監督が、あんなに号泣するなんて……。監督も相当プレッシャーを感じていたんだなぁ、とその時初めてわかりました」

 今でこそ春夏連続出場はさほど珍しいことではない。しかし、当時は選抜優勝校は夏の甲子園に出場できないというジンクスがあった。選手以上に、監督は重責を負っていたに違いない。それを選手に悟られまいと、必死に平常心を装ってきたのだろう。

 橋野監督は母校の丸亀商業(現・丸亀城西)を7度も甲子園に導き、1980年の選抜では4強入りを果たすなど、県内では名監督と知られていた。その丸亀商時代は時には鉄拳も辞さない“鬼監督”だった橋野監督も、観音寺中央への赴任を機に選手の自主性を重んじた指導法に転換。毎日の練習メニューも選手自身に考えさせていたという。

 当時キャプテンを務めた土井は当時の監督についてこう語った。
「僕たちのチームは個性派集団でしたが、橋野監督はその個性を大事にしてくれました。
 監督がよく言っていたのは“野球人である前に一生徒であれ”ということ。だから僕たちには、野球がうまいから、レギュラーだから偉い、という気持ちは全くなかった。みんな同じ仲間意識をもっていました。
 バランスのとれたまとまりのあるチームになれたのも、橋野監督のおかげなんです」

 選手は皆、橋野監督に尊敬の念を抱いていたという。それが多くのプレッシャーをはねのけ、夏もまた甲子園の切符をつかむことができた最大の要因だったのかもしれない。
 彼らが再び大舞台に戻ってくることがわかると、周囲はすぐさま“春夏連覇”と騒ぎ立てた。しかし、監督も選手も気持ちはただ一つ。「目の前の試合に勝つこと」。それだけだった。

 奇策に見る勝利への執念

 久保は香川大会から調子がいまひとつ上がっていなかった。バラバラのフォームを戻そうと試行錯誤したが、いったん崩れたフォームを修正することはなかなかできなかった。甲子園に入っても久保のピッチングは不安定なままだった。

 初戦の宇都宮学園戦(栃木)は中盤まで無失点に抑えたものの、終盤に入って相手打線につかまった。6、7、8回に5点を失い、逆転されると、マウンドを土井に譲った。だが、打線が2点を追う9回に一挙4点を奪って勝ち越すと、最終回、久保は再びマウンドへ。2死から死球でランナーを出すも、最後の打者をショートフライに打ち取り、8−6と辛くも初戦を突破した。

 そして迎えた2回戦。相手は同じ夏初出場ながら全国屈指の強豪区・神奈川県の代表・日大藤沢だった。1、2年生だけで約80人の部員を抱えるというマンモス校。205分の1という狭き門をくぐり抜けてきた同校の実力は計り知れなかった。

 しかし、観音寺中央も臆することなく、勝負に挑んだ。両校は互いに力を出し切り、追いつ追われつの接戦となる。3−3の同点のまま試合は延長戦へ。そして11回裏、久保は1死から3塁打を打たれ、ピンチを招いた。3塁ランナーがホームに返れば、試合終了とともに久保たちの夏が終わる。1死3塁、サヨナラの場面――最も警戒しなければいけないのは、スクイズだ。

 ベンチでは橋野監督がしきりにセンターの福健一郎に指示を出していた。最初、久保は自分と福を代えるのかと思った。リリーバーはショートの土井かベンチにいる杉森創のはずだ。
「監督、何言ってるんだ?」
 久保は何がなんだかわからなかった。指示された福はどんどん自分の方に向かってくる。やっぱり交代なのか……?

 すると、福はマウンドに立つ久保の右隣でピタリと止まった。そして、そこで守備体型に入った。
「え……!?」
 久保は目を丸くした。なんと絶体絶命のピンチに、橋野監督が打ち出したのは内野5人という超変則シフトだったのだ。それまで一度も練習したことはないばかりか、見たことさえもなかった。ショートの土井は「こんなシフトがあるのか……」とその時初めて知ったという。橋野監督の勝利への執念がそこには見られた。

 結局、久保は四球でランナーを出し、シフト効果は得られなかった。
「特に動揺はありませんでした。逆に開き直って“こうなったら、力いっぱい放ったれ!”とガンガンにいったら、ストライクが入らなかったんです(笑)」

 1死1、3塁とピンチはさらに続く。打席に入ったのはラストバッター、ピッチャーの神崎吉正。この試合、3打数2安打1死球をマークしていた。その神崎が叩きつけた打球はセカンドへ。バウンドの高さを見た3塁ランナーは迷わずホームに突っ込んだ。それを見たセカンドの小倉英貴は体勢を崩しながらもキャッチャー森のミットめがけてボールを投げた。5万人の大観衆の目がホームに注がれた。

「セーフ!」
 次の瞬間、主審の両手が大きく左右に開いた。タイミングはアウトだった。だが、小倉の送球が浮いてしまったため、ランナーの手がホームにつくのが一瞬早かった。
 4−5、サヨナラ。観音寺中央ナインの夏が幕を閉じた。最後のボールは久保が最も自信を持っていた渾身のストレートだった。

 甲子園7試合目にして初の黒星。ベンチの前に整列し、初めて相手の校歌を聞いた。久保は心の奥底からわき出る悔しさをどうすることもできなかった。

「夏の甲子園では、負けたチームが砂を持って帰るのが恒例ですよね。ところが、僕たちはそのことをすっかり忘れていました。後で記者の人から『砂を持って帰れませんでしたね』と言われて、初めて気付いたんです(笑)。それほど悔しさが強かったんだと思います」

 あれから12年の歳月が流れた。残念だが、観音寺中央は春夏ともに2度目の甲子園出場を果たしてはいない。しかし、だからこそ全国制覇まで成し遂げた1995年は色褪せることなく、今もなお地元の人たちの心に深く刻まれている。

(最終回へつづく)

<久保尚志(くぼ・たかし)プロフィール>
1977年5月27日、香川県観音寺市出身。小学4年からソフトボールを始め、小学6年時には全国大会に出場した。観音寺中央高校では2年秋からエースとなる。春夏通じて初の甲子園出場となった3年春の選抜大会で全国優勝を果たす。夏も甲子園に出場するも、2回戦で敗退した。中央大学を経て、鷺宮製作所に就職。1年目からレギュラーを獲得し、活躍する。05年の日本選手権では主将としてチームを牽引し、ベスト4に。今夏の都市対抗野球大会では32年ぶりに初戦を突破。ベスト4まで勝ち進み、自身も大会優秀選手に選ばれた。






(斎藤寿子)
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