カープ球団が創設された最初のシーズン(昭和25年)、チームはなかなか勝ち星に恵まれず負け続ける中で、下を向かずに孤軍奮闘していたのが投手・長谷川良平だった。打てない、守れないカープの中で、4月27日の西日本パイレーツ戦まで、0勝6敗と結果が残せていなかった。こうした中でも石本監督は、長谷川を使い続けるのであった。


 カープは投手陣が少しばかり手薄であることは、第34回の考古学でお伝えした。しかし、投手にとっては、こうした台所事情が苦しいときこそが、チャンスとなり、登板機会を得られ、自身の成長から、結果へとつながっていく。

 

 長谷川が投げれば、上位チームに対して、あと一歩というところまで、追い詰めるものの、ここぞというところでの1本がでない、ここ一番で、チームが踏ん張れないということが多かった。

 

<ほとんどAクラス・チームとの対戦に差し向けられ、好投しながらも勝ち星に恵まれず、6連敗していた>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月4日)

 

 初代エースの初勝利

 6連敗の長谷川に与えられた次なる登板は4月27日、舞台は甲子園での西日本戦だった。

 

 西日本パイレーツと聞いても、コアなオールドファンでも詳細を語れる人は少ないかもしれない。福岡県を本拠地にし、わずか1年間だけプロ野球に名を連ねたチームであった。西日本新聞社を親会社にして結成された球団で、新規でのプロ野球参入という意味ではカープと同じであった。

 

 余談であるが、筆者が『日本野球を創った男--石本秀一伝』(講談社)を記す中で、聞いた話のひとつに、セパ分立の際、新聞リーグ、電鉄リーグという構想(筆者注・あくまで構想)があったらしく、カープが中国新聞をバックにして、新聞リーグに入ろうとしていたというものがあった。

 

 読売新聞を筆頭にして、毎日新聞、中日新聞、西日本新聞ときて、中国新聞をバックにしたカープが、新聞リーグに加入--。当時、朝日新聞社も球団結成に動いていたこともあり、この新聞リーグ構想はただの噂話であったとは言えない。しかし、現実にはセとパに分かれ、新聞社、鉄道会社、映画会社など、戦後復興期の隆盛にむかった企業らが、諸々の思惑をもって、プロ野球の球団を手にするのである。

 

 話を元に戻そう。カープの先発・長谷川に対し、西日本は32歳からプロに入った南村不可止(のちに侑広)を四番に据え、迎え撃った。南村は新人でありながら、ベテランといえる年齢で、球団消滅後には巨人に移籍したことでもわかるように、熟達のバッティングを持っていた。いわばチームの牽引役だった。

 

 初回、珍しく先制したカープに対し、西日本は二回に追いつき、その後、カープが八回表までに西日本先発の緒方俊明を捉え、4対1と試合をリードした。

 

 長谷川の1勝目が見えてきたところだったが、八回裏、田部輝男にスリーランを打たれて、試合は振り出しに。この田部はカープの考古学第1回で紹介した広島の「鯉城園倶楽部」の主力選手だった。

 

 4対4と追いつかれたものの、この日のカープは長谷川の好投も手伝い、勝ちへの執念からか、すぐさま反撃に出た。

 

 九回表、ランナー二塁とチャンスをつかむと、カープの初代四番・辻井弘の会心の当たりがツーベースとなり、二塁ランナーがホームイン。これが決勝点となり、長谷川は初勝利をあげるのだ。

 

 チームも4連敗中だったこともあり、この1勝はカープの選手にとって喜びもひとしおであったろう。この勝利を皮切りにして長谷川はカープ一筋で14年間投げ抜き、通算197勝をあげた。弱小カープでこの勝ち星は、大金星と言っていいだろう。近年になっても「長谷川良平がいなかったら、いつ潰れてもおかしくなかった」と語られるほどで、苦しい境遇でこそ歯を食いしばって投げた、まさに"小さな大投手"であった。

 

 長谷川の投球フォームはさまざまな人によって語り継がれているが、身長167センチと小柄な体でありながら、投球動作とともに、マウンドで飛び上がるかのように、一瞬浮いたかと思えば、すぐに体を縮めて、右腕をテイクバックさせ、このときに生まれる遠心力でもって、横手から投げ込む。いわゆるサイドスローが、彼の真骨頂だった。この一連の動作がキュッ、キュッと素早いためバッターはタイミングが合わせ難い。その上、ボールを曲げたり落としたりと、変化球でかわす巧みな技も持っていた。

 

 このフォームは一朝一夕に完成されたものではない。長谷川の当時を知る貴重な資料が出てきた。

 

<時おり打者の目先し(原文ママ)をかえるため投げるオーバースローの球もスピードはあった>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月4日)

 

 長谷川がエース街道を上り詰めていく過程において、時折、オーバースローも併用していたことが記事として残されている。フォームを変えながら、打者のタイミングを逸しながらのピッチングだったのであったろう。突如として現れるオーバースローに打者はかく乱させられ、その打者に向かって気持ちをむき出しにしながらの投球であった。

 

 このオーバースローの話を長男・長谷川潤氏にぶつけてみた。

 

「タイミングをずらす意味もあり、また完全なるオーバースローでは、肩や肘の負担が大きいという発想から(サイドスローに変えたの)だったと思います。それとシュートのキレをよくする意味でも」

 

 加えて、長谷川は2種類のシュートを投げ分けていたという。晩年、硬球を手に潤氏に語ったことがあるという。筆者も過去資料から得た情報であるが、シュートを右バッターのアウトローに投げ込み、そこで落ちるボールがあったとのことである。それについて潤氏。

 

「指が短かったので、フォークボールは投げられませんから。シュートなど、他のボールを工夫していたと思います」

 

 筆者の推察にもなるが、シュートボールをサイドスローから、角度をつけて投げることで、それはシンカーのように落ちる球となったのであろう。いずれにせよ、体が小さいなら、大胆なフォームで立ち向かい、指が短くフォークのかかりができないとあれば、他のボールを落ちる球へと改良を加えていたのだ。

 

 さて、長谷川が初勝利をあげた西日本について余談をもうひとつ。西日本が本拠地を置く福岡県には、西鉄クリッパース(のちの西鉄ライオンズ)もあり、約30万人程度の福岡市街地での2チームとあって、ファンの動向が読めず、観客動員にもつながらなかった。そのため1年で解散の憂き目に合うのだが、一説には、親会社である西日本新聞社の記者の給料不払いなどからロックアウトまで起ったというほど、球団経営は親会社の事業を圧迫したようである。

 

 若干22歳、"若鯉"ともいえる長谷川は初勝利をあげたことで西日本に得意意識が芽生えたのである。この日以降、西日本戦では好投を続け、5月だけで西日本から3連勝したのである。この時、長谷川についた異名が"海賊(パイレーツ)殺し"であったという。シーズンを通じても6勝5敗と勝ち越し、カープ初年度の勝率が3割に満たない中でも、奮闘していたのだ。

 

 波に乗って"鯨狩り"

 長谷川は競り合った試合が多かった中で、大勝に恵まれた試合もあった。前回のカープの考古学でも紹介したが、勝率が5割を超えた6月には、カープの打線が爆発した日があった。6月7日、広島県北部にある三次市を流れる場洗川の河原にある河川公園(現在、十日市親水公園)で、広島のお隣、山口県下関市を本拠地とする大洋ホエールズとの試合で、長谷川はマウンドに上がった。

 

 マウンドといっても河川敷で軟式野球を行っていた場所をグラウンドに作り上げたものであり、とてもプロ仕様とは呼べない代物だった。

 

<軟式野球用のバックネットを張り、観覧席は、一塁側は土手の斜面を利用し、その他は野っ原であった>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月5日)

 

 前日から三次野球協会のメンバーらが、総出で土建屋から借りてきたコンパネを張り巡らせて球場とした。協会に所属していた北川豊彦らが「当時、協会のメンバーが30名から40名ぐらいいて、みんなで球場をつくった」と証言している。

 

 もともと野球熱の高い三次である。地元の要望もあって試合を開催したこともあって、この日のカープは打ちまくった。二回まで2対2と均衡を保ったが、三回のカープの攻撃は圧巻であった。阪田清春のスリーランホームランなどで一挙6点をあげた。さらに五回には樋笠一夫のホームランなどで4点を追加し、この時点で15安打を放ち、先発全員安打を記録した。

 

 大洋は試合を投げ出したのか、ここまで打たれても投手を変えなかった。五回以降は投手継投を行わず、さらにそこにカープがつけこみ、七回に一挙10点。ワンサイドゲームで勝敗を動かぬものとした。計28安打で鯨軍団を撃破したのだからファンも笑いが止まらない。この1試合28安打は、現在も破られていないセ・リーグ記録となっている。

 

 実はこの試合、記録だけでなく"記憶"に残る珍事も起こった。この場洗川の河川敷のグラウンドには三塁側から、センターバックスクリーン方向に向かって、電線が伸びていた。アマチュア野球においてはプレーに支障はなかったが、カープと大洋の一戦では、この電線があるプレーの主役となった。

 

「たしかカープの攻撃だった」とは先の三次野球協会の北川豊彦の記憶である。

 

 レフトにフラフラっとあがった打球。この打球をレフトがキャッチするかに思えた瞬間に、ボールがポトリとレフトの前に落ちたのだ。何が起こったのかわからないまま、ランナーは二塁へ到達した。

 

 ふと見ると例の電線がユラユラと揺れているではないか。なんと打球は電線に当たり、ヒットになったのだ。このことは『広島カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんじゃ』に詳述したが、北川によると「電線二塁打(*注1)という名称で記憶していた」と証言している。

 

 いずれにしても、地元総出で、カープの試合のために、コンパネを集めて球場の囲いをつくり、さらに、総出で応援にかけつけた三次市民の熱気がレフトフライをレフト前ツーベースへと後押ししたのであろう。三次市の手作りスタジアムは熱い一日となった。記録にも記憶にも残った一戦は、陰で支えた三次市民の奮闘がつくったものでもあった。

 

 茨の道が続くカープ初年度だが、鯉昇りのシーズンをすぎると同時に好調な3カ月間へと突入する。次回はその蜜月の3カ月にフォーカスを当ててみよう。乞うご期待を!
(つづく)

 

【取材協力】 北川豊彦(2008年3月18日)、長谷川潤
【参考文献】 「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月4日、1月5日、「中国新聞」昭和25年6月8日、『カープ50年-夢を追って』(中国新聞社・広島東洋カープ)
*注1) この電線二塁打についてカープOB長谷部稔は、講演会では「電線ヒット」の名称で語り継いでいる。「ヒット」と「二塁打」で証言が食い違う印象があるが、各方面の証言から同一のものと判断し、今回は地元証言の「電線二塁打」と記させていただいた。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


◎バックナンバーはこちらから