カープ創設の昭和25年、この最初のシーズンは苦労が絶えなかった。しかし、石本秀一監督は、シーズン中でもチーム浮上のきっかけつかむため、選手補強の手を緩めてはいなかった。いついかなるときにも、勝つことへの野心は衰えない石本が率いたからこそ、カープは苦難続きの初年度を乗り越えられたのだろう。


 苦戦続きとはいうものの、カープ初年度にも順調に戦った3カ月間があった。このことは前々回のカープの考古学でお伝えした。今回はプロらしく躍進した5月からの3カ月間にフォーカスしたい。

 

 勝てない3月、ここ一番で弱い4月を乗りこえ、カープにチームとして手応えが出始めたのは5月だった。球界関係者に「新球団のカープはなんとかやっていけるのでは」と感じさせただけではなく、「もしかすると、強いのではないか」との声も一部では上がり始めたのである。

 

 このカープのわずかながらの躍進をキャッチアップしたのは、中国新聞の一面下段にある論説記事「断層」だった。

 

 この時期、セントラル、パシッフィックでともに最下位に低迷していたのは、国鉄と東急であった。これら両チームのみならず、当然ながら、カープも国鉄同様に苦戦続きであった。コラムの「断層」はこれら2チームに加えて、低迷するカープのことをこう伝えている。

 

<最近東京では、この國鉄や、パシッフィク・リーグの東急にファンが増えたというが、弱い者を助けたいという騎士道的なものが裏にあるのかも知れぬ>(中国新聞・「断層」昭和25年5月18日)

 

 騎士道とは、中世のヨーロッパで戦いが続く中で生まれた「弱き者を尊び、かの者たちの守護者たるべし」としての考え方であり、このコラムはそれをプロ野球にあてはめているのであろう。続けて、騎士道精神がカープにも働いており、これら2チームに加えて、弱いとされたカープを応援するファンが増えているというのだ。

 

 さらに、驚くことなかれ、この時期のプロ野球選手らの間で一部評判になっていることとして、カープが強くなっているという噂が伝えられているのだ--。

 

<セントラルの各選手は最近カープは強くなったという>(中国新聞・「断層」昭和25年5月18日)とある。

 

 このコラムの裏付けとして、鯉のぼりの季節である5月の単月の勝敗を追ってみるとする。この掲載の5月18日まで10試合が行われ、6勝4敗と勝率6割をマークしているのだ。勝てない、ここ一番で弱いカープにあっては、上出来であったかもしれない。この"躍進の5月"を前に、ある男がカープにやってきていた。

 

 カープの運命を担った男

 男の名前は森井茂--。新生カープがスタートした最初のメンバーには入っておらず、シーズンが進んでからの加入である。常に選手集めを続け、戦力補強を怠らないのは、平生のそなえを重んじる、実に石本監督らしさがにじみ出ている。また大きな契約金が払えないカープにあって、追加招集において引退した選手や、峠を越えた選手らに声をかけているのも特徴である。この森井も正真正銘、プロを引退していた選手であった。

 

 三重県の宇治山田商業の出身で、昭和11年に「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)に入団。<その年の秋のリーグでは、沢村に次ぐ勝ち星をあげ、以後、エースの象徴である開幕投手を6回も務めている>(「朝日新聞」朝刊・三重全県版(2013年5月11日)

 

 この秋、沢村栄治が13勝(2敗)と抜きんでており、これには及ばないものの、森井が8勝(5敗)で続いている。さらに、文献にあったように、森井は開幕投手6回という記録を打ち立てており、これは後に、中日において、2014年に川上憲伸に抜かれるまで、半世紀を超えて保持されていたチーム記録であり、いかにすごい投手であったかが分かるというものだ。

 

 森井が開幕投手を務めたのは戦前の職業野球時代で、1937年春、1937年秋、1938年秋、1941年、1944年で、戦後は1946年である。森井自身は1938年9月に応召され、戦地から無事に生還した後にも、開幕マウンドを踏みしめているのである。日本国の一大事に身を差し出したという歴史がなければ、開幕投手の記録はもっと伸びていたのでなかろうか。かくも戦争というものはスポーツにも影を落とす存在である。

 

 森井の投球術は、剛速球が武器の沢村とは正反対のものであった。森井の投球術が記してある文献をあたる。

 

<アンダースローからの超スローボールを武器とする技巧派だった>(「朝日新聞」朝刊・三重全県版(2013年5月11日)

 

 そんなスローボール主体の軟投派が、カープに入団し、大仕事をやってのけるのだ。

 

 開幕から2か月経とうとしていたが、カープは首位・松竹ロビンスには、いまだ勝っておらず、0勝3敗。うち森井は2敗と、悔しさを秘めて5月のマウンドに上ったのである。

 

 舞台は5月24日、甲子園球場である。松竹の打線は、後年、水爆打線と異名をとった超豪華打線で、当日のラインナップは一番、好打者の三村勲。二番、俊足の金山次郎ときて、クリーンアップは新田式ゴルフスイングと異名をとる強打の小鶴誠、長距離砲の大岡虎雄、"神主打法"の岩本義行と続いた。この豪華なスタメンにより、勝敗予想は大方が「松竹優勢」だった。しかし、場数を踏んできた森井は、この水爆打線相手にひるむことなく立ち向かうのである。

 

 初回、カープは田中成豪のタイムリーヒットで1点を取り、好調に滑り出した。2回にも坂井豊司がヒットで出塁し、森井も自らのバットから快音を響かせ、連続ヒットで続いた。ここで白石敏男(後、勝巳)が走者一掃の三塁打を放つ。打線が奮起したカープは、2回を終え4対2とリードした。

 

 思わぬ苦戦を強いられた松竹は、早々と先発投手の大島信雄を諦め、エース眞田重蔵を投入して、勝ちへの体制を築いていく。この大島は、新人ながら20勝をあげ新人王を獲得する好投手であり、ひきついだ眞田も39勝というとてつもない勝ち星をマークした大エースであった。

 

 だが、森井は2敗を喫した試合で松竹対策を学んでいたのか、森井らしいかわすピッチングで松竹の打者を翻弄したのだ。この日のピッチングの様子が、中国新聞にこう記されている。

 

<打ち気にはやる松竹打線をスローカーブで巧みにいなし>(「中国新聞」(昭和25年5月25日)

 

 技巧派の森井が柔よく剛を制し、以降、3回から7回まで、ずらりとゼロを並べた。8回に1点を許し1点差に詰め寄られたものの、9回表、森井の奮闘に触発されたのか、カープは4番・辻井弘、5番・田中成豪が連続三塁打を放つなど、ダメ押しの1点を加え、5対3と援護し、勝負を決めた。

 

 森井はカープでの初勝利を首位をひた走る強打の松竹からあげたのだ。昭和21年に中部日本(後、中日ドラゴンズ)に在籍して以来4シーズンもプロ野球から遠ざかっていた男の大偉業であった。

 

 "松竹殺し"の誕生

 首位・松竹にも勝てるという思いが持てたことは森井にとって大きかったろう。自信をつけた森井は、次の松竹戦でも快投を演じた。先の1勝から約3週間後の6月17日、後楽園球場での松竹戦。この日の先発は森井。前回の好投もあり、石本監督は自信をもって彼をマウンドに送ったのである。

 

 対する松竹の先発は江田貢一(孝)。この年、23勝をあげ、松竹優勝の立役者となる右腕である。

 

 この日、前回の番狂わせもあって、立ち上がりから緊迫したゲーム展開となり、4回まで、両チームゼロ行進が続き、均衡を破ったのは五回の松竹。ワンアウト満塁と森井を攻めたてた。

 

 さすがの森井もこのときばかりは力が入ったのか、フォアボールを与えてしまい、押し出しで先取点を許した。しかし、これ以降はすぐさま、自分のピッチングを取り戻し、ゼロを並べた。

 

 こうした森井の粘りの投球もあり、カープも同じく満塁の好機を得た。七回、一死満塁、一打逆転のチャンスである。ここで7番・坂井豊司が、レフト前にうまく運ぶ、逆転タイムリーを放った。この一打が決勝点となり、森井は九回を1人で投げ切り、カープは首位を独走する松竹に底力を見せつけたのだ。

 

 この日の森井の熱のこもったピッチングは、中国新聞にこう記されている。

 

<森井は低めをつくシュートとゆるいカーブで松竹打者のタイミングをはずして、三安打一点に抑え、堂々対松竹二度目の勝利投手となった>(「中国新聞」(昭和25年6月18日)

 

 技と緩急を交えたうまみのあるピッチングで、水爆打線の爆発を防いだというわけだ。圧巻のピッチングを称えてか、翌日の中国新聞には「"松竹殺し"森井」の見出しが躍った。

 

 この年、森井は松竹から大金星となる2勝をあげ、草創期のカープに勇気をもたらした。ただ、当時35歳をすぎていた森井にとって、6月以降はなかなか勝てず、この年は2勝(8敗)に終わった。シーズン終了と同時にカープを引退し、プロ野球から再び去っていくのである。しかし、森井がいたからこそ、カープが首位チームにも勝てることを認識させたのである。カープが躍進した3カ月間には、森井のようにプロ生活最後の輝きを発揮した立役者がいたのである。

 

 カープ躍進の3カ月の物語はまだ始まったばかりである。次回は苦難続きの初年度のシーズン、カープを躍進させた、どんな千両役者の物語が披露されるのか。また、次回ではプロ野球2リーグ制初年度と並行して興業が行われていた、別の野球リーグのことも伝えさせていただこう。本編と合わせ、乞うご期待。(つづく)

 

【参考文献】 「中国新聞」「断層」(昭和25年5月18日)、「中国新聞」(昭和25年5月25日)、「中国新聞」(昭和25年6月18日)、「朝日新聞」朝刊・三重全県版(2013年5月11日)、「読売新聞」夕刊(昭和13年9月17日)、『ああ中日ドラゴンズ』(鈴木武樹・白馬出版)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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