面白かった。というか、腑に落ちた。23日付のスポニチに載っていた川淵三郎氏のインタビュー。

 

 基本的に、意見というものには「違い」はあっても「間違い」はない、とわたしは思っている。掲載されていた川淵氏の意見に賛同できる部分は少なかったが、氏とわたしの立場の違いを考えれば、納得はできる。

 

 わたしが面白いと思ったのは、「五輪好きの国民からここまで嫌われるとは思わなかった(のでは?)」という問いに対する答えだった。

 

「マスコミの誘導だよね。全てといってもいいぐらい、ワイドショーの司会が反対の立場でモノを言う。(中略)日本全体が病んでいるとしか思えない」

 

 ならば、わからないこともない、と思った。なぜ五輪を司る人たちは、こんなにも神経を逆撫でするようなコメントを連発できるのか。なぜ国民に寄り添おうとする姿勢が見えてこないのか。

 

 根底にあったのが「悪いのはすべてマスコミ」という思い込みなのであれば、そして氏の思い込みが大会を司る人たちに共通する認識なのであれば、なるほど、いろんなことに得心がいく。

 

 見えていなかったのか、だからなのか、と。

 

 五輪反対の空気を生み出したのはマスコミ? いや、日本のマスコミは最後まで自分の立ち位置を明らかにしなかった。外国でこんな報道があった。ネットの反応はこんな感じ――そんなことを伝えるだけで、開催か、中止か、延期か、自分たちの立場を明らかにしたところはごく少数派だった。

 

 活発な意見が飛び交っていたのは、ネットだった。

 

 メディアに責任を求める川淵氏の意見は、さして目新しいものではない。米国前大統領の登場以降、「フェイクニュース」という単語は完全に市民権を得た。報じられる側からすれば、便利な言葉だろうし、数多ある報道の中にフェイクが含まれているのも事実だろう。

 

 ただ、メディアを敵視した前大統領は、その分、ネットを重視した。ウソかマコトかはともかく、メディアの報道を否定すれば、必ず事実、もしくは事実に見せかけたニュースをダイレクトにどれほどメディアが彼を叩いても、一定の支持層は離れなかった。

 

 ところが、五輪を司る人たちは、その努力をまるでしなかった。マスコミを敵視するのであれば、その分、味方につけなければいけない層があったのに、彼らはそこにまったく目を向けず、ただただ放置した。

 

 これで、どうやって味方をつくるつもりだったのか。

 

 何度も、何度も、何度も書いてきたが、わたしは、五輪の素晴らしさを信じている。日本に世界中から観客が来てくれれば、必ずや大きな財産になるとも思う。

 

 でも、それはいまではない。

 

 わたしが懸念しているのは、世論を黙殺する形で強行されそうな今回の五輪が、日本人のスポーツイベントに対する認識を決定的に変えてしまったのではないか、ということ。

 

 北海道新聞によると、30年の冬季五輪招致に反対する道内の声が、賛成する声を逆転したという。では、もう一度サッカーのW杯を開催しようという声があがったら? 諸手をあげて喜んでくれる層は、どれぐらいいるのだろう。

 

 変わらずにいる、と言い切れる自信が、いまのわたしには、ない。

 

<この原稿は21年6月24日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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