「広いなぁ……」
 第67回全国選抜高校野球大会。開幕前の練習で初めて甲子園の土を踏んだ久保尚志は、その広大さに圧倒された。スタンドで待機していた時にはテレビで観るよりも小さく感じ、なんだか“おもちゃ”のように思えた。ところが、いざグラウンドに降りると、そこはまさに“マンモス球場”だった。

 1995年3月28日、春夏通じて甲子園初出場の観音寺中央高校の戦いが幕を開けた。初戦の相手は同じ新鋭の藤蔭高校(大分)だった。
「とにかく初戦だけは勝って、香川に帰ろう」。そんな思いを胸に、選手たちは試合に臨んだ。

 1回裏、久保はいきなり先頭打者にヒットを打たれた。続く打者に送りバントを決められると、1死2塁から先制タイムリーを許した。観音寺中央は3回表に2番・田中靖教の3塁打で同点とするも、その裏、1死3塁から今度は犠牲フライで1点を勝ち越されてしまった。だが4回表、4番・室岡尚人、5番・高木稔之の連続2塁打で観音寺中央は再び追いついた。
 序盤から続く一進一退の攻防に、エースはどんな思いでマウンドに立っていたのだろうか――。

「実は、序盤のことは全く覚えていないんです。途中、ベンチから伝令が来たことさえも、記憶にない。後でビデオで観て、初めて知ったんですよ。
 本来、僕は緊張しないタイプなんです。試合でも始まるまでは不安に感じたりするんですけど、いざ始まってしまうと、それほど緊張することはありません。でも、甲子園だけは違いました。開会式の入場行進の時なんかは落ち着いていられたんですが、いざ試合になると……。“頭が真っ白になる”というのは、ああいうことを言うんでしょうね。あんなに緊張したのは初めてでした。ようやく冷静になれたのは、5回くらいからですね」
 いつもポーカーフェイスで冷静な久保も、やはり初マウンドの甲子園では尋常でいることはできなかったようだ。
 
 互いにチャンスを作りながらモノにすることができず、2−2の同点のまま、試合は終盤へと突入した。均衡を破ったのは、観音寺中央。控え外野手で2年の大森聖也のひと振りだった。ブルペンキャッチャーを務めていた大森は、思い切りの良さを買われて6回に代打で出場し、得点には結びつかなかったがヒットを放っていた。

 迎えた8回表1死後、2度目の打席に入った大森は初球のストレートを迷わずフルスイングした。打球は勢いよくバックスクリーンへと飛び込み、貴重な勝ち越し点となった。9回表にも主砲のタイムリーで1点を追加した観音寺中央。最後は久保が三者凡退で切ってとり、記念すべき甲子園初勝利を収めた。そして、全国制覇への第一歩を踏み出した瞬間でもあった。

 会心の完封劇

 目標としていた“初戦突破”を果たした選手たちは、緊張感から一気に解き放たれた。
「あとは楽しんで野球をやろう」――。そんな思いで2回戦に臨んだ。

 2回戦の相手は全国屈指の強豪校、東海大相模高校(神奈川)だった。春は2度の準優勝の実績をもつ同校は、大会前の下馬評でも優勝候補の筆頭に挙げられていた。
「5点以内に抑えれば、なんとか……」
 久保が試合前からある程度の失点を覚悟したのも無理はなかった。その年の秋、ドラフト1位で巨人に入団した原俊介、現在中日で主力として活躍している森野将彦など、強打者がズラリと並ぶ打線は、相手投手にとっては脅威以外何ものでもなかった。しかも、初戦でいきなり19安打15得点を叩き出し、その実力を遺憾なく発揮していたのだ。
 橋野純監督もまた「打ち勝つしか勝機はない」と考えていた。

 ところが、終わってみれば6−0の完封勝ち。久保は強力打線をわずか4安打に抑えた。試合後、4打数1安打に終わり、最後の打者となった4番キャプテンの原は涙を流した。そして、2年ながら5番を張った森野は「公式戦でノーヒットは初めて」と悔しがった。

「この試合は投げていて、気持ちがよかったですね。とにかく後先考えず、初回から飛ばしていったんです。何せ相手は強打の東海大相模。抑えていても、“いつ爆発するかわからない”というプレッシャーが常につきまとっていました。でも、それが返ってよかったんだと思います。
 それと、バックにも助けられました。ランナーが出ても、ことごとく併殺にしてくれたんです。今思えば、外野もいいところで守ってくれていました」
 これまで数多くの試合をこなしてきた久保だが、その中でも“忘れられない試合”の一つとなった。

 続く準々決勝、準決勝と打撃戦を制した観音寺中央は、決勝へとコマを進めた。だが、2回戦から3連投の久保の肩は限界に達しつつあった。
「2回戦が終わった夜、肩に違和感を覚えたんです。それから準々決勝も準決勝も痛くて……」

 これまで味わったことのない痛みに「もう投げられなくなってしまうのでは」という考えが脳裏をよぎったこともあった。その不安を必死にかき消しながら、久保はマウンドに上がった。
 決して橋野監督から命令されたわけではない。逆に、監督には「無理をするな」と言われていた。だが、痛みよりも「投げたい」という気持ちの方が上回っていたのだ。

 2試合とも途中でキャプテンの土井裕介にマウンドを譲ったが、打線の援護もあり、久保は一度もリードを許すことはなかった。だが、自分へのふがいなさが募り、準決勝ではベンチで一人、涙をこぼした。
 決勝進出を決めても、喜びを味わう余裕など全くなかった。あるのは「明日は何とかしなくければ……」という思いだけだった。

(第3回へつづく)


<久保尚志(くぼ・たかし)プロフィール>
1977年5月27日、香川県観音寺市出身。小学4年からソフトボールを始め、小学6年時には全国大会に出場した。観音寺中央高校では2年秋からエースとなる。春夏通じて初の甲子園出場となった3年春の選抜大会で全国優勝を果たす。夏も甲子園に出場するも、2回戦で敗退した。中央大学を経て、鷺宮製作所に就職。1年目からレギュラーを獲得し、活躍する。05年の日本選手権では主将としてチームを牽引し、ベスト4に。今夏の都市対抗野球大会では32年ぶりに初戦を突破。ベスト4まで勝ち進み、自身も大会優秀選手に選ばれた。






(斎藤寿子)
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