ここ何回かのカープの考古学では、カープが創設された最初のシーズンにおいて、わずか3カ月であるが、躍進する時期があったことをお伝えしてきた。


 確かな試合運びで、上位チームとの対戦にもひけをとらず、勝ち星をもぎとっていくのだ。この昭和25年のセントラル・リーグにおける上位戦線はというと、後に水爆打線の異名をとる松竹ロビンス、開幕からスタートダッシュに成功した中日、川上哲治や千葉茂などが主力の巨人。この3チームが覇権を競いあっていた。

 

 これらに果敢に挑むのは、親会社のない郷土チーム広島カープである。前回でお伝えした松竹キラーとなった森井茂や、長谷川良平らの粘り強い投球もあり、駒がそろってきていた。これらに好調な打線がかみ合い、勝ち星をあげていく。まさに理想形の戦いができるようになってきた。

 

 首位戦線に食らいつく

 昭和25年6月16日、後楽園での中日戦。好調の中日を支えていたのは、かの近藤貞雄だった。彼はこの試合まで6勝負けなしという完璧さだった。これに対し、カープらしい野球で挑んだ石本秀一監督の戦略がズバリはまった。小刻みに点を重ねて4回から7回まで毎回1点ずつ奪うそつのなさで、粘り強さを発揮した。広島の先発・長谷川良平は立ち上がりからボールにキレがあり、強打を誇る中日打線をてこずらせた。

 

<長谷川の好投に四回まで、毎回一本ずつの三振を喫するなど苦戦を続けた>(「中国新聞」昭和25年6月17日)

 

 だが、好投の長谷川に油断があったか、それとも疲れがあったか。7回裏、中日打線が長谷川に襲い掛かった。4番・杉浦清がヒットで出塁、5番の野口明も続いた。野口は走塁をあやまり、1死三塁。ここでこの日ヒットのない6番・杉山悟に代わって代打・加藤進がレフトスタンドにたたき込み、4対2と2点差につめよられた。勢いの出た中日は、8回、好調の2番・原田徳光がライトスタンドにホームランを放って1点差に迫った。だが、この後の中日の攻めは、カープの外野陣が好守備を見せ、長谷川は完投した。カープに接戦をものにできる粘りがでてきたのだ。

 

<後楽園スタンド熱狂のうちに廣島カープは前半の優勢を守り、威風堂々の勝星をあげた>(「中国新聞」昭和25年6月17日)

 

 巨人に大量点で圧勝!

 ここ一番に強くなったカープ。さらに、圧巻だったのは、その2日後、6月19日、後楽園での対巨人戦だった。広島の先発は長谷川で、巨人は吉江英四郎だった。吉江は昭和23年、急映フライヤーズ(後、東急)に入団して、新人ながら16勝(19敗)をあげ、昭和25年に巨人に移籍した。

 

 カープ打線は立ち上がりからうまく抑えられ、きっかけがつかめないでいた。巨人軍は、千葉茂、青田昇、川上哲治らがクリーンアップにズラリと並んでいた。

 

 4回裏に1点を許したものの、好投する長谷川をなんとか援護したいという思いからか、チャンスが訪れた。カープの6回表の攻撃であった。

 

 先頭打者、2番の阪田清春がヒットで口火をきり、吉江の動揺を誘った。続く3番・岩本章と、4番・辻井弘が連打で満塁。好調の辻井弘が打つとチームがのってくる。巨人軍ベンチはここで吉江を諦め、多田文久三にスイッチした。多田文久三は前年、14勝9敗と活躍し、巨人の主力として台頭してきていた投手である。

 

 辻井はこの時期、チャンスに強かった。この翌々日、5月20日の中国新聞によると、カープ初代の4番・辻井は、打率3割5分で、打率ランキング3位でもって、好調な打線のけん引役として、輝きを放っていた。

 

 さあ、ノーアウト満塁のチャンス。5番は前年まで高等学校で教師をしていた樋笠一夫である。いけいけのカープ打線、樋笠の鋭いスイングがボールを捉え、レフト前へ。この後、レフトからの返球をキャッチャー武宮敏明がそらして、一気に逆転! この回、7安打を浴びせて、大量6点をあげたカープが一気に試合を決めた。

 

 長谷川は7回に1点を許したものの、要所を締めるピッチングで、巨人打線に9安打されながらも、最後まで投げ切り、6対2でゲームセット。

 

 カープは強くなった--。こうした思いが、確かな手応えとなっていた。6月20日、宮城県石巻での松竹戦、これも集中打をあびせる戦いぶりで、4対2と踏ん張って勝ちきると、勝率を4割にまで上げて、6位(22勝33敗)に浮上した。開幕から一時期、勝率1割台だったカープにすれば信じられない快進撃であった。中国新聞に小さな見出し<廣島6位に躍進>とあった。

 

 プロ野球にセとパ、2リーグという新しい時代が訪れ、広島カープという自治体のバックアップによる、異例のプロ野球チームが生まれ、原爆後の広島に新しい娯楽となり、古くからの野球熱のある地、広島がよみがえってきた。つい数年前まで、ガレキの山と化した町が、アメリカで生まれた野球によって、再び息を吹き返したのである。

 

 この年、広島では平和大橋や西平和大橋の建設が始まり、町を東西に貫く平和大通りの原形ができつつあった。被爆後の広島の次なる未来を描いて、町は動き出していた。

 

 このカープの一時的な躍進に驚く中で、時期を同じくして、世界をあっと驚かせる出来事があった。

 

 東洋の火薬庫爆発--。隣の韓国で38度線を境に北と南に分かれて、戦火を交えたのである。いわゆる朝鮮戦争が勃発した。

 

 原爆後の広島で、野球を楽しむ環境が生まれていた中で、かつては、アジア大陸からほど近く、軍事拠点として大本営がおかれた町、広島にあって、朝鮮戦争開始の動揺はすくなからずあった。のちに戦争特需による好景気がもたらされ、日本経済は盛り返すが、時期を同じくして広島では新しいプロリーグの試合が行われていた。この新時代への動きを、カープの考古学の章内コラムとして掲載しておこう。

 


◆カープの考古学章内コラム1 ~女子プロ野球の開幕~◆

 昭和25年5月28日、中国新聞に小さな見出しが載った。

 

<女子プロ野球廣島シリーズ--。>

 

 なんと女子によるプロ野球リーグが結成され、広島に試合にやってきていたのだ。記事にはこうある。

 

<女子プロ野球三共レッドソックス対ロマンス・ブルーバードの試合は三十日午後二時から廣島市民球場(*1)で行われる。技術的には見るものがないが紅唇をほころばしてのプレイぶりは、各地で相当の人気を集めている>(「中国新聞」昭和25年5月28日)

 

 見逃してしまいそうな小さな記事であるが、試合結果を5月31日の中国新聞は伝えている。

 

<三共レッドソックス対ロマンス・ブルーバード公式戦は年季の入ったブ軍が攻守に老巧ぶりを発揮して、9対1で圧勝した>(「中国新聞」(昭和25年5月31日)

 

 カープ誕生の同年、女子プロ野球リーグが日本に生まれ、4チームが二つに分かれて、全国行脚を始めていた。野球熱の高い広島の地に、女子とてプロとあらば注目しない訳にはいかない。

 

<遠征は時に20日余りにも及び、年間試合数は百数十試合にも上がったという>(「読売新聞」2007年1月8日)

 

 時代は明らかに変わってきていた。この時のことが、「アプレ・ガール」と記され、戦後世代のおてんば娘としてコラム断層にこう記してある。

 

<男性は多少のお色気で女性は好奇心で、初めはいかがわしい野次を飛ばしたり、目を皿のようにして見ているが、試合が二回、三回とすすむにつれて、この観衆はツボツと帰りだす>(「中国新聞」(昭和25年6月1日)

 

 当然ながら、カープの試合であっても野次は絶えなかった頃である。しかし、帰る客があったとしても、<彼女らは女子スポーツの興隆という崇高な気持ちで、中等野球クラス技術をもって、大いに真面目に戦っている>(「中国新聞」(昭和25年6月1日)と奮闘ぶりを伝えている。

 

 この三共レッドソックス、ロマンス・ブルーバードと共に在京チームとしては、「ホーマー」「パールス」らで結成された日本女子プロ野球連盟だったが、これらはアメリカで盛んになりつつあった女子プロ野球にならってのスタートとなったようだ。

 

<アメリカの女子プロ野球が昨年度(1949年)150万人を動員した>(「中国新聞」(昭和25年6月1日)とあり、人気を博したことから日本でも女子を、となったようだ。

 

<男子はすでに日米野球が行われていた。GHQが打ち出した男女同権の波に乗り、これからは女子野球の時代がやってくる。商売になる確信があった>(「読売新聞」2007年1月8日)と当時の関係者のコメントである。

 

 この時期、占領下の日本にあり、広島でカープの試合に加えて、女子プロ野球の試合が見られようとは、5年前、あの原爆の大惨禍を経験した広島にあって考えられないほどの復興ぶりであったろう。

 

 ところが残念なことに、女性として、ショーとして、プロを貫きたいロマンス・ブルーバードと、野球に対する真摯な姿勢を重んじる他の3チームの主張がおりあわず、ロマンス・ブルーバードはリーグを脱退する。また、審判はプロ野球審判を採用しておらず、社会人審判だったことなどもあって、昭和27年シーズンを前にプロとしての日本女子野球連盟ではなく、ノンプロへと移行することになった。短い女子プロ野球の歴史であったが、日本において女子野球の歴史は、ノンプロに形を変えながらでも、その後も続くのである。(了)

 


 章内コラムを記させてもらった今回のカープの考古学だが、次回では初年度の会心の3カ月を過ぎ、カープは苦しい時期に突入する。カープ選手の給料は、2軍選手らの強化策はなど、期待すること全てが裏目に出てしまうのだ。歯を食いしばってしのぐカープにとって壮絶な時代となる……。乞うご期待。
(つづく)

 

(*1) この女子プロの試合が行われた廣島市民球場は、昭和32年の建設の旧広島市民球場のことではなく、西練兵場跡地(現、広島県庁)に木造でつくった7段程度の観客用のスタンドがあり、バックネットだけ張った簡易な球場。昭和25年1月15日には広島カープ誕生の結成披露式が行われた場所でもある。

 

【参考文献】  『ああ中日ドラゴンズ』鈴木武樹(白馬出版)、「中国新聞」昭和25年5月28日)、「中国新聞」(昭和25年5月31日)、「中国新聞」(昭和25年6月1日)、「中国新聞」(昭和25年6月17日)、「中国新聞」(昭和25年6月17日)、「中国新聞」(昭和25年6月21日)、「読売新聞」(2007年1月8日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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