皆様、今月も鈴木康友コラムをご覧いただきありがとうございます。プロ野球はオールスターも終わり、オリンピック期間のインターバルに入りました。28日からは侍ジャパンの金メダルに向けた戦いが始まります。7月の野球界、話題の中心はなんといってもエンゼルス大谷翔平でしたね。まさかオールスターのホームランダービーに日本人選手が出場するなんて、昔では想像もできませんでした。では、今月も私の球論にお付き合いください。

 

 抜群の走塁勘

 大谷は打って良し、投げて良し、そして走って良し。バッティングもピッチングも言うまでもなく素晴らしいんですが、私は彼の足、走塁にも非凡なものがあると感心しています。

 

 今月3日(日本時間)のオリオールズ戦、2番DHで出場した大谷は、この日も2打席連続でホームラン(29号、30号)を放つなど大活躍でした。そして7対7で迎えた9回裏です。四球で出塁し、2死から二盗を決め、一打サヨナラのチャンスをつくりました。

 

 そしてウォルシュがライト前に弾き返すと、俊足を飛ばし一気に三塁を蹴ってホームまで。ストライク返球でタイミングはギリギリでしたが、足から滑り込んでホームイン! サヨナラを決め、大谷はそのまま両手を突き上げました。そこにチームメイトが殺到する。まるで優勝したような騒ぎでしたね。

 

 あのときの走塁は、何よりもスタート勘の良さが光りました。たしかウォルシュは初球を打ったと思うんですが、普通、セカンドベース上で何球かピッチャーの投球とタイミングを合わせないと、ドンピシャのスタートはなかなか切れないものです。それがバットに当たった、「カーン」という音がした瞬間にあのスタートですから、相当に走塁センスは高いものを持っています。

 

 しかもライトはチャージして前に出てきて、ストライク返球ですから、普通ならアウトです。でも大谷の走力、そしてスライディング技術も見事でした。左足を折りたたみ、できるだけタッチから遠くなるようにホームへ滑り込んだ。技ありのスライディングでした。

 

 二刀流の大谷にとって怖いのはケガで、特に牽制球で帰塁が危ない。肩をグラブで叩かれたり、指をケガしたりという危険性がある。でも見ていると、大谷は相手に牽制球を投げさせない雰囲気を出しているんですね。「走らないよ」というオーラを全身から漂わせ、警戒を緩めてから、それでパッと走るわけです。相手からしたら「この野郎っ!」という感じですが、大谷はあのキャラクターですから、相手としてもどこか憎めない。

 

「打って投げるだけで十分。あそこまで走らなくてもいいのに」という意見もあるでしょうが、試合に出ている以上はバットでも足でもチームに貢献したいという思いがあるんでしょう。私がコーチをしていたとき、ひとりだけそういう選手がいましたよ。巨人の桑田真澄です。ある日、彼が「康友さん、僕に盗塁のサイン出してください」と言いに来たことがあります。結局、これは原辰徳監督から「やるならシリーズまでとっておこう」と待ったがかかりましたが、桑田も大谷と同じく「試合に出ている以上は足でも貢献したい」という思いだったんでしょう。言うなれば2人とも野球少年がそのまま大きくなったようなもんですよ。小さい頃の野球は思い切り打って、投げて、そして走って、と全部やるのが楽しかった。野球の本場で野球少年・大谷がこの先もどれだけ活躍するのか、本当に楽しみですね。

 

 さて、今年は2年ぶりに夏の甲子園大会が開催されます。私がコーチを務める立教新座(埼玉)も3年生が最後の夏を準々決勝まで懸命に戦いました。以前も書きましたが、今年はスタンドで父兄が応援できるのが何よりです。3年生にとって大きな区切りとなる夏の大会ですから、どの選手も悔いなく思い切りプレーしてもらいたいですね。

 

 最後に、球界の先輩の訃報が届きました。中日などで活躍し、日本ハムで監督を努めた大島康徳さんが6月30日に亡くなりました。大腸がんで4年ほど闘病されていましたが、とても元気で2年前には東京ドームで久々にお会いしました。そのとき私も病気をしていたことを知ると、大島さんは「康友!病気に負けず共に頑張ろうな!俺元気だろ!」と大きな声で励ましてくれたものです。

 

 常に明るく元気なのは現役時代から変わりません。私は巨人、西武を経て86年に中日に移籍しました。あの頃の中日の主軸は左の谷沢健一さんと右の大島さんでした。あと平野謙さんがいて、投手陣では星野仙一さんがまだ現役でしたし、まあクセのある、熱い人たちばかりでした。大島さんと私は奥さんがCA出身という共通点があったので、巨人時代から何かと声をかけてもらっていました。中日移籍後も気にかけてもらい、本当に心強かったものです。

 

 大島さんの一番の思い出は81年8月26日、後楽園での巨人対中日戦です。いわゆる「宇野ヘディング事件」が起きた試合です。私はあのとき巨人の一員として一塁ベンチで一部始終を見ていましたが、ウーやん(宇野勝)がヘディングしたボールをファウルグランドで必死になって追いかけている大島さんの姿を今も覚えています。まあヘディングで1点入り、1対2と1点差に迫られ、さらにバッターランナーの山本功児さんもホームまで走っていましたから、そりゃあ必死になるでしょう。

 

 大島さんはいつも明るく豪快で、グラウンドでも大声を出していました。試合前のシートノックでもテンションが高く、私はショートを守りながら「この人、もしかして一杯ひっかけているんじゃないのか?」と、レフトの大島さんを見て思ったことは一度や二度ではありません(笑)。巨人、西武という管理野球でお堅いチームを渡り歩いてきた私にとって、大島さんを筆頭にした中日の野武士軍団は「こういう楽しい野球もあるんだな」と思わせてくれるものでした。

 

 ずっと続けられていた大島さんのブログに、こんな一文がありました。

 

<野球一筋、野球人として生きることができた。皆様のおかげです。どうもありがとう。(中略)病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ その時が来るまで俺はいつも通りに普通に生きて自分の人生を、命をしっかり生ききるよ>(大島康徳公式ブログ「この道」2021年7月5日更新)

 

 これを読み、私はTwitterにこう書きました。

 

<先輩がブログに書き記された想いに共感し僕も野球人の1人として野球道を全うします!合掌!>

 

 大島先輩の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、2020年東京五輪の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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