五輪、高校野球、そしてプロ野球とこの夏は「野球三昧」で過ごした気がしています。高校3年生にとって大事な区切りとなる夏の各地区大会が無事に行われたことにホッとしたと同時に、地方大会、そして甲子園でも新型コロナウイルスの影響により不戦敗という事態があり、無念であろう球児たちの気持ちを考えずにはいられません。では、今月も私の球論にお付き合いください。

 

 胸を張れる5試合1失策

 まずは高校野球の埼玉県大会のことから。私が臨時コーチを務める立教新座高は、ベスト8まで勝ち進みました。5試合でエラーはたった1つとバッテリーを中心にした守りが光りました。特に3回戦の熊谷商との試合はしびれました。4対3で迎えた最終回、1点差で1死一、三塁とサヨナラ負けのピンチがありました。スタンドから見ていた私は同点を覚悟した場面です。でも、それをショートゴロゲッツーで切り抜け、ゲームセット。この試合、最後のものを含め、計3つのゲッツーをとりました。守備コーチからすれば3つゲッツーをとれば、その試合はもらった、も同然です。ナイスゲームでした。

 

 今年の3年生は1年のときからずっと見ている代で、彼らに対しいつもこう言い聞かせていました。「内野手はゲッツーで、外野はホームで刺し、ピッチャーは三振をとってイニングを終えるようにしなさい」と。いわゆる守備で勢いをつくるというものですが、最後の夏、それを実践してくれたのが嬉しかったですね。

 

 準々決勝の浦和学院戦も0対2と大健闘でした。相手を3安打に抑え、最終回には温存していたエースも引っ張り出したんですから。ただ、準決勝の2点は重かったですね。相手との差はピンチになったときの気迫とでも言うんでしょうか。相手ピッチャーはここぞというところで「うりゃ!」という感じでボール球を投げてきて、こちらはそれを振らされた。県王者との差はまだまだあるな、と思いました。でも控えの選手も調子が良く、監督も彼らをうまく使って良い試合ができたんじゃないでしょうか。

 

 そういえば高校野球では、いわゆる甲子園戦法として、ランナーが出たら1死でも送りバントという作戦があります。プロ野球の現役やコーチ時代は、ずっと「堅過ぎるのでは」と思っていたんですが、欽ちゃん球団(茨城ゴールデンゴールズ)のコーチをしたときに気が付きました。

 

 プロの2軍と試合をしたんですが、たった1点や2点がとれないんですよ。原因はランナーが出ても、次の塁に進められないこと。器用に右打ちができるバッターがいるわけではなく、盗塁もそう決まるわけじゃない。となると、ここぞというときはバントが有効なんですね。1点、2点を争うレベルこそ、バントが重要だとそのとき実感しました。

 

 春夏ベスト8の感激に浸る間もなく、立教新座高は8月中旬からは新チームで練習試合を始めています。2年生ピッチャーに2人、良い選手がいて、今度のチームも楽しみです。少しでも県内強豪との差を縮め、ぜひ甲子園の土を踏んでもらいたいものです。

 

 さて、次は五輪野球です。まずは稲葉篤紀監督を始め、選手、スタッフの皆さんに金メダルおめでとう、そしてありがとうと伝えたいですね。稲葉監督の選手セレクトはフォアザチームを重視していたようで、結果、チーム力で勝ち取った金メダルでした。

 

 個人的にMVPを送るとすれば、攻守にわたって活躍した甲斐拓也です。ピッチャーとのコミュニケーションではベンチからブルペンに電話をかけ、一球目の入りなどを話し合っていたといいます。攻守、そしてコーチの役までやっていたんですから大したものです。

 

 それとドミニカ共和国戦での同点スクイズも見事でした。9回裏、村上宗隆のタイムリーで2対3と1点差に迫って、なおも1死一、三塁。そこで甲斐は見事にセーフティスクイズを決めました。同点や決勝点のスクイズというのは難しいんですよ。でも、あれをきっちりと決めたところが甲斐の真骨頂です。ファームの頃からきっちりと鍛えられたんでしょうね。それは準々決勝のアメリカ戦で代打に出て、一球で送りバントを決めた栗原陵矢にも言えます。福岡ソフトバンクの育成力が五輪でもいきましたね。

 

 あと甲斐は、栗原のバントの後、1死二、三塁で打席に入り、ライトオーバーのサヨナラ打を放ちました。このとき稲葉監督に「打っていいですか」と確認してから打席に入りました。選手は「いつバントのサインが出るのだろう」という思いがあると、集中できません。だから甲斐は打席に入る前に気持ちを決めておきたかったんでしょうね。それでライト方向にコンパクトに打ち返した。バントと同じくファーム時代にライトや一塁方向へ打ち返して、粘っこいバッティングを繰り返していたのが実を結びましたね。

 

 あとドミニカ共和国は9回裏にピッチャーがベースカバーを怠ったり、その前にはツーベースで一塁ランナーが途中、足を止めてホームまで帰ってこれないミスがあった。そういう面でも初戦から日本に流れが来た印象です。

 

 アメリカも決勝戦でセンターのバックホームが逸れ、それをキャッチャーが後逸。バックアップの選手がそれをフェンスに跳ね返ってからとり、ホーム送球も山田哲人が間一髪ホームインというシーンがありました。逆に日本は田中将大が同じようにバックアップしたとき、フェンスに当たる前に直に捕球した。そのあたりの細かいことの積み重ねが金メダルにつながったんじゃないかと思います。

 

 細かいミスを指摘すれば、近藤健介のフェアゾーンへのオーバーランとか、中継ぎで失敗した青柳晃洋をなぜもう1試合投げさせたとか、伊藤大海をイニングまたぎさせたのはいかんだろうとか、初戦、一、二塁の場面は菊池涼介に強行ではなくバントだろうとか、指摘したいポイントはなくはありません。

 

 でも、どの試合も日本らしく粘り強く、そして全員が戦う姿勢を見せ、感動させてもらいました。「勝って当然」というプレッシャーの中でよく戦ったと思います。もう一度、金メダルおめでとう、と言いたいですね。

 

 個人的には4月に奈良県で私が運んだ聖火が、国立競技場で長嶋茂雄さんにつながったシーンが何よりも感動的でした。王貞治さん、松井秀喜と日本野球を代表する人たちの元へ私も聖火を届けられたんだな、と。

 

 五輪が終わった後は甲子園です。今年は雨に祟られ、史上最多7度の順延となりました。順延が繰り返されると野手はさておき、投手は気持ちをつくるのが大変ですよ。プロでもスライド登板は1日まで。それが2日、3日伸びたら相当にストレスになるでしょうね。

 

 私も天理高校1年の夏、背番号14をつけてベンチ入りしました。このときは台風の影響で(3回戦が)3日くらい順延したんですが、私は気楽なものでしたね。宿舎でおいしい食事をいただき、スイカを食べて、と。そんなことをしている間、母校のグラウンドでは新チームが汗だくになって練習をしている。そう考えたら「(奈良に)帰りたくないなー」と(笑)。その年、1年生の私は代打で出場し、甲子園デビューはサードゴロに終わり、チームは準々決勝で新居浜商(愛媛)に敗れました。

 

 そんなことを思い出すと、横浜(神奈川)の1年生の緒方君ですか、スタメンショートで出場し、最後はサヨンラホームランまで打ったんだから立派です。半年前まで中学生だったのに、それが聖地でホームランなんですから、今後が楽しみですね。

 

 今回で103回目の甲子園は、そろそろ改革の時期に来ているのかもしれません。1回戦、2回戦を甲子園で行い、3回戦からは京セラドームで。そしてベスト8から再び甲子園を舞台にする、など。暑さや雨対策を考えた新しい仕組みを考えてもいいんじゃないでしょうか。球数制限や休養日の増加など改革は進んでいますが、もっと変えていく必要があるでしょうね。

 

 後半戦が始まったプロ野球については、来月、お話することにしましょう。福岡ソフトバンクが巻き返すであろうパ・リーグのペナントの行方に注目しています。

 

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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