メダルには届かなかった。

 

 あれほどやったのに、これだけなのか。あれだけやったから、あと一歩だったのか。たぶん、どちらも正しく、どちらも正しくない。そして、どちらの言い分にも、汲むべきところはある。

 

「彼らはサッカーを知っているけれど、僕らは1対1をし続けている。そこが大きな壁」と振り返ったのは、田中碧だった。おそらく、本人としては敗因として口にしたのだろう。メキシコやスペインとの間にあった差を見事に表現した言葉だとわたしも思う。

 

 ただ、日本のサッカーが「1対1をし続けて」こなかったら、東京五輪でのベスト4進出はなかった。フランス相手に圧勝することはあり得なかった。

 

 21年前、サンドニでフランス代表と戦った日本は、「惨劇」としか言いようのない内容と結果を突きつけられた。個人の技術をうんぬんする以前に、ぬかるんだグラウンドで満足に走れない選手がほとんどだった。

 

 固定式のスパイクで平然と動き回るジダンの姿を目の当たりにした中田英寿は、以後、スパイクに頼るそれまでのやり方を捨てた。思えば、それは日本人アスリートが「体幹」というものの重要性に気付いた最初の瞬間だったかもしれない。

 

 21年現在、欧州のピッチで満足に走れない日本人はいなくなった。21年前には残酷なまでに歴然としていた、個々の運動能力の差は、劇的に縮まった。かつてのわたしたちが「日本人だから」と言い訳にしていたものが、単なるトレーニングの不足や欠如に起因していたことも明らかになった。

 

 メキシコやスペインには完全に内容で負けた東京五輪の日本選手は、しかし、フランスには負けなかった。ブラジル以外の参加国であれば、どことやっても内容で圧倒されることはなかっただろうと断言もできる。

 

 では、田中が感じたメキシコやスペインとの間にあった差とはなんなのか。

 

 九九だとわたしは思う。

 

 九九をマスターしていない人から見ると、できる人の頭の中は奇蹟でしかない。だが、上には上がいる。インドには2桁の九九があり、わたしなら筆算で解くしかない計算を、インドの小学生は暗算でやってのける。

 

 メキシコやスペインのサッカーは、結局のところ、ボール保持者に3つの選択肢を与え続けるサッカーである。2人の受け手と突破。Aという受け手に渡ったらどうするか。突破をしたらどうするか。周囲の選手は、常にそのことを考えながらプレーしている。そこが、苦しくなると選択肢が極端に減ってしまう日本との決定的な違いだった。

 

 そんなことを考えていたらパニックに……と九九しかできない人間は思う。だが、日本人にメキシコやスペインのようなことができないのは、日本人だから、ではない。訓練をしていないから、である。

 

 メキシコやスペインに内容で勝とうと思うのならば、目指す道は3つしかない。今以上に個々の力に磨きをかけるか、自分たちもインド式の九九的発想を取り入れるか、そのどちらをも追うか、である。

 

 では、身につけるためにはどうするか。わたしだったら、まずはホーバスさんに話を聞きにいく。狭いスペースにおける連動する約束事。バスケットボールは、サッカーにとって気付きの宝庫だと思うから。

 

<この原稿は21年8月12日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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