カープ球団創設の昭和25年は、出だしでつまずいたものの、鯉昇りの季節から6月を勝ち越した。それも、この年の首位争いをしている松竹、中日、巨人を相手に戦い、勝ち星を納めていくのである。寄せ集めとされた戦力のカープであっても、チームとしての結束が図れ、体制がととのってきた時期であった。

 

 5月を9勝7敗と勝ち越し、そのまま勢いにのり、6月は7勝6敗と勝ち越した。6月16日からは、球団創設で初となる4連勝を飾る。それも中日、松竹(2勝)、巨人を相手にしてのことであるから、カープ強しの一時期は確かにあったのだ。カープはやっていける--。球団や選手らにも自信が芽生え、他球団の選手らにも強さが伝わっていた時期である。

 

 順風の勢いにのり、飛躍の季節と誰しもが感じたが、カープは急転直下の運命をたどる。プロ野球界でも空前絶後の大珍事が起るのである。

 

 連盟からの最後通達

 7月に入って、カープはあと1勝というところで4割に届かず、次第に低迷していくのだ。この時期に、カープは創設以来の最初の苦難、球団そのものが苦境に立たされ、苦闘の時期を迎えるのである。

 

 中国新聞は伝えた。
<危機に立つカープ 連盟から最後通達>(中国新聞・昭和25年6月26日)

 

 小さな見出しではあるが、この出来事こそ、カープ球団の最初の危機といえるものである。カープはセントラル・リーグ連盟に納めるはずの連盟負担金を支払っていなかったのだ。

 

<セントラル野球連盟は、発起人にたいして、連盟加盟金および分担金三百万円を六月三十日までに支払わないときは、セ・リーグ加盟権を取り消すと正式に通達した>(中国新聞・昭和25年6月26日)

 

 カープはセントラル・リーグ連盟に300万円を支払わねばならなかった。当時、カープの1カ月人件費や運営にかかる費用が、約80万円から100万円とされていたこの時期、300万円という大金は重くのしかかった。

 

 では、この加盟金および分担金とは--いったい、どういうものなのか。『カープ風雪十一年』に、こうある。

 

<加盟金とは、そもそもなんであろうか。新しくできたリーグだから、いわば協同体、その基礎基金として、出し合うのならわかる--と考えたのだが、説明は「のれん代」ということであった>(『カープ風雪十一年』河口豪・ベース・ボールマガジン社)

 

 戦後、経済復興を目指す日本にとって、さまざまな利権や、思惑がからみ、のれん代としてのみかじめ料的な上納金はあったのだ。プロ野球とて、復興に向かう中でのとりたてはあったとされる。これには、戦前からの職業野球や、戦後、儲からない時期を耐え忍びながらも、泥まみれの中でプロ野球興業を行い、日銭を稼いでしのいだ時代が背景になっているものだ。

 

 カープ創設のこの年、セ・パに分かれ、15の球団が高らかに雄叫びをあげて、華々しくもプロ野球が戦後復興の娯楽の先端を走るかのように地方を賑わせた。

 

 この時、戦後すぐに結成された8球団の思いとしては、相乗りしてきた7球団に対する。やっかみは少なからずあったとされる。

 

<既成の八チームは今日迄多大の犠牲と努力を払って土台を築き上げて来たのである。それを強いか弱いかも判らない多くの新チームと同一のリーグとするわけにはいかぬ>(『野球と正力』室伏高信・講談社)

 

 これは、阪神電鉄社長の野田誠三氏の思いであるが、この先行した8チームに、後続の7チームが加わるのならば、まずは上納金たる「加盟金及び分担金」を納めてからにしろ、というのは理にかなった話であろう。しかし、これに困ったのはカープである。親会社のない球団とあって、広島県、広島市などの出資をたよる郷土チームとあって、無い袖を振るどころか、そこに手を突っ込まれたようなものである。

 

 無人の選手寮

 動揺が隠しきれないカープは、先の中国新聞の報道がなされた6月26日から試合では、札幌から青森、仙台での遠征では5連敗と、みるみるうちに泥沼にはまっていった。時を同じくして朝鮮半島の戦局にも変化があった。日本に駐留していたダグラス・マッカーサー元帥が、北朝鮮との戦いに押されている韓国軍を鼓舞するために彼の地に飛んだ。占領下の日本にあっても、さまざまな動揺があっただろう。こうした中で、カープには莫大な資金を提供するよう、連盟からの容赦ない圧力が襲い掛かる。行く先の見えない時代のペナントレースにおいて、この頃からカープの雲行きが怪しいものになる。

 

 とりわけ、遠征は辛いものがあった。東京行きは、呉線経由の「安芸」に乗って22時間にも及ぶ長旅となった。他球団が「特2」に乗っても、カープは三等列車で、床にザコ寝やゴロ寝を強いられた。

 

 それでも6月9日、広島総合球場で、大洋に4対2と競り勝って遠征にでかけ、下関から東京、後楽園に行き、石巻、函館、小樽ときて、札幌に入った。青森に渡り、仙台、山形。そして甲子園、後楽園、中日、福井、金沢、富山、太田東山から後楽園ときて、広島に戻っての試合は、7月30日のことだ。

 

 17の地方や都市で、27試合をやるという強行軍で、11勝15敗1分け。カープはなんとか持ちこたえて戻ってきた。

 

 この遠征から帰ったとき、カープ史における、最初の衝撃的な出来事が起った。『カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』から引用する。

 

--7月30日の松竹戦のために広島に戻った一軍メンバーは、ある異変に気が付いた。
 長谷部稔(当時、一軍捕手)は、宿舎が静かだと思った。
「おかしいな。誰もいない」

 

 居残りで練習しているはずの二軍選手が見当たらず、宿舎は閑散としていた。

 

 カープは経営難で資金繰りに苦しむ中、一軍選手の給料も欠配遅配の連続。二軍選手の20人に関しては、最初の一カ月分が支払われただけだった。さらに、会社設立の見通しも立たず、今後も支払われる可能性はないとのことで、いったん二軍選手の切り離しを断行していたのだ--。

 

 このことは、『カープ30年』(冨沢佐一・中国新聞社)に詳しい。

 

--「県や市が出資さえすれば会社も出来る。その時にはみんな呼んでやるから、いったん故郷へ帰ってくれ」。球団からの通告で、松野(保)、古神(利明)、太田(直生)、岡村(孝雄)といった選手はそれぞれ実家へ帰っていった。もらったのは汽車賃だけだったという--。

 

 試合では善戦しながらも、カープの経済状態は日ごとに悪化し、最悪の事態を迎えていた。合宿所となっていた三菱重工の寮は、家賃も払えず、明け渡しを求められる始末。こうなると直接的な戦力とならない二軍選手は口減らしとばかりに、解雇に踏み切ったというわけだ。

 

 これは選手ばかりの話ではなく、二軍監督の灰山元章もそうであった。この灰山は、あの広島商業が、昭和4年夏、5年夏、6年春に全国優勝を果たした際のエース(昭和5、6年)で、超中等野球投手とされ、名将・石本秀一の秘蔵っ子であった。チームの創設にあたり、石本から直接請われ、二軍監督を引き受けた。遠征中は寮に残り、ひたすら練習を続けていた中での解雇だった。カープでは、いっさい日の目を見ることのなかった人物である。

 

 角本義昭の証言

 昭和25年7月に、カープ球団は二軍選手約20人をいっせいに故郷に帰らせるという暴挙にでる。プロ野球史上でも過去に例のない大量解雇である。選手個人の戦力外通告という甘いものではなかった。球団経営の危機に瀕した中での大断行であった。

 

(写真:当時を振り返る角本義昭氏)

 当時から70年経っているが、カープ第1期生で、この渦中にあった角本義昭(90歳)に当時を聞いた。


 投手だった角本は、大量解雇を一時的には免れた人物である。彼は、昭和6年生まれで、盈進商業時代にはレフトを守りながら、オールラウンド的に投手もこなした。卒業後、備後通運の野球部で投手として頑張っていた中で、地元広島にプロ野球チームができると聞き、鼻息荒くテストに臨んだ。

 

「ピッチャーでね。その時(入団テスト)には会社には黙って行ったんですよ。(入団テストの情報を)たぶん聞いたんでしょうね。で、どうやって行ったかなと思って。2日目から呉から通ったのは憶えています。(原爆の後の)広島によくいったなあと。採用になって来い、といわれても、オフクロが泣いたですよ」

 

 5年前に原爆が落ちた広島市内には、広島県内で最東、約100キロ離れた福山市からでも、行くことはご法度とされていた。しかし彼は、その草木も生えないとわれていた広島へ行くことを決心。「親を捨てて行くんか!」と涙された。

 

 野球人なら誰しも一度は憧れるプロ野球の世界である。原爆の放射能被害については、謎が多く、流言飛語がとびかった時代である。若干19歳の角本は、若気の至りであったろうか、泣く親を振り払ってのカープ入団となった。

 

 こうしたいきさつの入団ではあったが、初期登録選手の24人に名を連ねた。しかし、すぐに登板のチャンスがあるかといえばそうではなかった。練習には熱心に取り組んだが、角本自身は二軍と一軍を行ったり来たりの日々であった。

 

 来る日も来る日も登板のチャンスはない。ところが、二軍が大量に解雇される中、角本自身には、いよいよ登板のチャンスが来るのか、という、期待は確かにあったという。

 

 角本自身の信州への遠征の記憶をたどる。

 

「長野球場、その翌日は、北向きの観音様の上田」「北向きの観音様は日本で唯一じゃいうから、よう憶えています」「上田に移動しよったときです、それらがすんで名古屋、名古屋すんだら(実家に)帰ってエエとなった」というのだ。

 

 これは、定説である二軍解散とされた時期と異なっているが、証言から分析すると、8月8日に上田で中日戦を行い、8月9日が長野で大洋と試合を行っている。そして8月10日、松本で試合をした後の名古屋において、遠征のメンバーらと離れ、カープから退団となったのである。

 

 二軍監督の気遣い

 角本の記憶をたどる。その名古屋での朝のこと。マネージャーである久森のお伴を仰せつかった。マネージャーの久森は、カープ球団内では知る人ぞ知るPL教団の信者であった。

 

「おい、角本、お伴をせい」とこんな具合に誘われ、名古屋のPL教団に行き、おつとめをすませた後のことである。

 

「PL教団に連れられて、朝、久森さんのお伴で行くんですよ。切符を買った記憶はないので、渡されたんだったと思います」。「名古屋から、久本さんが家に帰ってエエいうて」。

 

 ここで、他の二軍選手らは、7月に大量解雇をされた中で、角本が8月の信州での遠征に帯同できたのは、なぜか。当然、こうした疑問が沸いてくるのだが、角本が70年間秘めていた思いはこうだ。

 

「今思うと、灰山さんが、気遣いしてくれたと思っておるんですよ。他の者は遠征に行かずに帰っているでしょう」と角本。

 

 要は、他の選手らは7月に解雇され、8月の信州での遠征に帯同できていないが、角本には、一軍でのチャンスをつくってやりたかったというのが、灰山の思いだと角本は受け止めている。確かに投手で二軍監督である灰山は、プロ野球の経験はないが、超中等野球のエースとして、全国制覇をした投手であり、選手の勇退の美学はもっていたのだろう。

 

 しかし、角本は遠征での登板の機会は恵まれなかった。名古屋でマネージャーの久森から渡された切符を手に、広島県東部の福山市まで戻ったという。

 

 その後、翌年にカープから一通の手紙が届いたのを憶えているというが、カープの第1期生として、わずかなプロ生活の幕は閉じたのだ。

 

 この時の信州への遠征では、昭和25年シーズン、セントラルで優勝を果たす松竹ロビンスの選手らとの乗り合わせることになり、列車の向かい席には、大岡虎雄と、神主打法の岩本義行が座ったという。「長谷川と一緒にすわったが、こっちは小もうなってしもうて」「そりゃー豪快でしたよ。ハチマキして、一升瓶片手に酒盛りしよるんだから。大岡の虎雄いうたら、小指が、わしらの親指ぐらいあったね。虎雄いう名前にふさわしい豪快な男やったね」と。

 

 この信州遠征の移動中の酒盛りに圧倒されたか、8月10日の松本での松竹戦でカープは、3対7とふるわなかった。

 

 カープ初年度には、一時的な躍進はあったものの、他球団にはない、言うに言えない苦労の連続であり、野球で戦うのは相手チームであるが、球団運営を行う上でのお金との戦いがつきまとったのだ。苦し紛れの二軍選手の解雇に踏み切ったカープであるが、この憂き目をみた二軍選手らが苦境を引き受けてくれたお陰で、後、70年後となる現代にまでカープ球団を存続させることができている。

 

 この年、松竹がセントラル・リーグ初代の王者となるが、その翌々年の昭和27年の松竹は、勝率3割を切ってしまい、チームが消滅という結末を迎える。瞬間的な輝きよりも、未来への生き残りをかけた策は正解であったろう。

 

 さて、初期のカープの苦労編は、次回も続くが、何とか生き長らえてきた当時のカープ球団の思いが見えかくれするエピソードをキャッチアップしてみよう。乞うご期待。

 

【参考文献】 「中国新聞」(令和2年12月1日)カープ70周年 70人の証言 1950年、「中国新聞」(昭和25年6月26日)、『広商野球部百年史』(広商野球部百年史編集委員会)、『野球と正力』室伏高信(講談社)、『カープ風雪十一年』河口豪(ベース・ボールマガジン社)※一部を割愛し引用、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、『カープ昔話・裏話~じゃけえカープが好きなんよ~』(トーク出版)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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