プロ野球のペナントレースはいよいよ佳境を迎え、セ・リーグ、パ・リーグともにもう一波乱の予感がありますが、今回はいささか旧聞に属する話題で恐縮ですが、夏の甲子園決勝戦のことをお話しましょう。では、今月も私の球論にお付き合いください。

 

 朱色に染まった甲子園

 8月29日、夏の甲子園決勝は智弁学園(奈良)と智弁和歌山(和歌山)の近畿対決となりました。同じ学校法人が甲子園の決勝で対戦するのは史上初。同校の甲子園での対戦は2002年以来、19年ぶり2回目でした。

 

 結果は9対2で智弁和歌山に軍配が上がり、予想外の大差となりましたが、決勝まで、両校ともに総合力で勝ち抜いた、とても粘りのあるチームでした。ずば抜けた好投手や巧打者を擁するチームは、爆発力はあるものの、甲子園では足元をすくわれがちです。でも、両校は基本に忠実に、チーム一丸で勝利を積み重ねてきた印象です。

 

 智弁学園の小坂将商監督、智弁和歌山の中谷仁監督はともに同校OBで、自身も甲子園出場経験があります。70年代、名将と呼ばれる髙嶋仁監督は智弁学園で指揮をとり、そして80年からは智弁和歌山の監督に就任しました。中谷監督は直接指導を受けた髙嶋チルドレンであるのはもちろん、小坂監督も智弁学園に流れる「髙嶋イズム」の下で3年間を過ごしました。智弁同士の対決は、いうなれば髙嶋野球の対決ということにもなります。

 

 どちらも甲乙つけがたいチームでしたが、優勝した智弁和歌山には2つの利がありました。ひとつは中谷監督がキャッチャー出身だったこと。高校卒業後、阪神に入り、ケガで伸び悩むも楽天に移籍し、野村克也さんの指導を受け、野村さんからも信頼された野球IDの持ち主でした。やはりキャッチャー出身の監督というのは作戦が細かく、戦略的です。一方の小坂監督は外野手出身ですから、どちらかといえばおおらかな野球。でもその分、打者を育てる腕には定評があり、巨人の4番・岡本和真は小坂・智弁の出身です。

 

 あと中谷監督は引退後はブルペンキャッチャーを務めるなど、レギュラー以外の部分も知っている。そうしたことでチームの隅々まで気を配った指導ができた結果の全国制覇だったのではないでしょうか。また県下きっての好投手・小園健太(市立和歌山)に勝つためにはどうするか。それを目標にチームを徹底的に強化したのも要因ですね。

 

 そしてもう1点はチーム全員が「ちゃんとしていた」ことです。これはイチローが智弁和歌山に3日間ほど指導に行った際、最終日に円陣で部員に向かい、「ちゃんとやってよ」と声をかけました。このイチロー発言のポイントは、私が高校生にいつも言っている「ABC」と同じことです。A(当たり前のことを)、B(バカにしないで)、C(ちゃんとやる)。これこそが野球の原点だと私は思っていますし、イチローもそうでした。グランド整備をきちんとやり、道具は散らかさないなど、プレー以前の基本が「ちゃんと」できているかどうか、これが強さの源となります。

 

 智弁和歌山の部員たちも立派でした。言われたときに主将をはじめ、多くのナインの顔は「あ、イチローさんが言っているのはあのことだな」と納得顔でした。イチローに言われたことで改めて「ちゃんとする」ことを確認しあい、そしてよりチームがまとまり、結束力が生まれたんでしょう。

 

 そういえば中谷監督は元プロ野球選手として、学生野球資格回復研修制度ができてから初の優勝監督となりました。以前はプロアマの間には高い壁がありましたが、資格回復制度ができて、風通しが良くなりました。元プロ野球選手として高校野球指導に関わる私としても、中谷監督の活躍は嬉しかっし、高校野球はやはり指導者で大きくチームが変わるんだなと実感しました。

 

 とまあ、この夏は「智弁の朱色」に染まった夏でしたが、これはライバル校である天理OBとしては、少々複雑です(笑)。奈良県において智弁学園と天理は2強であり、永遠のライバルです。しかも私の生まれ育った五條市は智弁学園がある町です。故郷の学校の活躍は嬉しくもあり、でも天理OBとしては……。決勝戦をテレビで見ながら、ついつい「智弁の練習試合か」とか「朱色ではなく紫(天理のイメージカラー)に染めなあかんやろ」などとボヤいたものです。

 

 高校時代、同級生には智弁学園・山口哲也、郡山高(大和郡山市)の米村理がいました。全員がのちにプロに進み、そこで顔を合わせると、やはり話題は高校時代のことに。特に2強にいつも甲子園出場を阻まれていた郡山の米村は、「高校のときは天理の方角に向かって、"今年はやったるぞー!"と叫ぶのが日課だった」と言っていました。

 

 そういえば13年、東北楽天が日本一に輝いたとき、この奈良3人組が同じチームだったんですよ。米村と私はコーチ、哲っちゃんはスカウトやスコアラーとしてチームを支えていました。楽天日本一の後、3人でこう言ったもんです。「な、オレらが揃ったら日本一になれるんや。これ、高校時代に揃ってたら全国制覇いけてたで」と(笑)。智弁対決を見ながら、40年以上昔のことを思い出した夏でした。

 

 さて、今回は懐かしい話にスペースを割いてしまったので、プロ野球の話は今度こそ来月にたっぷりと。では、また。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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