「競技をしていて一番うれしい瞬間は、自分が立てた目標を達成できた時です。試合で優勝した時や自分の目指していた海外遠征の日本代表メンバーに選ばれた時は“今まで頑張ってきて良かった”と思えるんです」

 そう飛び込み競技について語る宮本葉月(近畿大学/高知SC)は、アジア競技大会、世界選手権大会(世界水泳)という大きな国際大会に出場してきた。日本代表としてグランプリ大会、ワールドシリーズなども戦ってきたが、オリンピックはまだ出場したことがない。

 

(2020年8月の原稿を再掲載しています)

 

 13年9月、その7年後(当時)に東京でオリンピックが開催されることが決まった。この時、宮本は中学1年。周囲はオリンピックムードに沸いたが、宮本にとってオリンピックは「雲の上の世界」だったという。

「周りから言われましたし、瓶子(勇治郎)コーチからも『オリンピックを目指そう』と話をされていました。でも私はどんなところかも知らなかった。飛び込みが上手くなったら、オリンピックに出られるという感覚でしたから、“上手になりたいから、そこへ行きたい”と漠然と思っていました」

 彼女の根本にあるのは“上手くなりたい”“強くなりたい”といったシンプルな欲求だった。

 

 18年8月、日本高等学校選手権大会(インターハイ)を制した後、宮本はインドネシア・ジャカルタでのアジア競技大会に挑んだ。同学年の三上紗也可(当時・米子南高/米子DC)と組んだシンクロナイズド3m飛板飛び込みは5位、3m飛板飛び込みでは6位に入った。2種目で入賞を果たした。

 

 高校卒業後は近畿大学に進んだ。入学早々に行われた日本室内選手権大会翼ジャパンダイビングカップ兼国際大会派遣代表選手選考会。優勝者のみが、その年の夏に韓国・光州で行われる世界水泳の日本代表に選ばれる。3m飛板飛び込みは三上に次ぐ2位で出場権を逃したが、榎本遼香(筑波大大学院/栃木DC)と組んだとシンクロ3m飛板飛び込みは1位で光州行きの切符を手にしたのだった。

 

 初の世界水泳は苦い思い出となった。この大会で8位以内に入れば、東京オリンピックの代表に内定が決まる。チャレンジャーとして臨める大舞台は苦手ではなかった。しかし榎本と挑んだシンクロ3m飛板飛び込みで12組までが進める決勝には入れず、14位で予選落ちに終わった。

「世界選手権はオリンピックに繋がる試合と考えたら、すごくプレッシャーになった。そういうところで吹っ切れられなかった……。他の試合では自分が挑戦者という気持ちで挑めるんです」

 

 涙の話し合い

 

 過去の大会を見ても、吹っ切れると強い宮本だが、世界水泳ではプレッシャーに潰れた。

「初めて試合に出るのが怖いと思いました。前まではどれほど緊張していても怖いとまでは思わなかった。“明日試合か緊張するし、嫌やな”と思う程度でした。でもこの時はホンマに怖くて眠れなかった。“どうしよう、どうしよう”と、足もずっと震えっぱなしでした」

 大会を迎える前から調子を落としている自覚はあった。不安を振り張ろうと休まず練習を積んだが、払拭できぬまま試合に臨み、結果を残せなかった。

 

 負けはこれまでも経験してきた。世界水泳で味わった悔しさは「比べものにならない」ほどだったという。この大会でのエントリーはシンクロのみ。残りは日本代表の応援、サポートに回った。不本意な結果に終わった宮本とは対照的に同学年の三上、荒井祭里(武庫川女子大学/JSS宝塚)が東京オリンピック内定を射止めていく。宮本は当時を振り返る。

「飛び込みを辞めたかった。会場には行かないといけないのですが、その場にいるのがつらかった。“早く帰りたい”と思っていました」

 

 帰国後も調子の上がらない日々が続いた。

「世界選手権がダメだった理由が私。私が失敗したからダメやったと思っていたし、すごくショックやし、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

 世界水泳で持ち帰った課題、筋力不足を補うためにウエイトトレーニングを始めた。しかし、身体付きも変われば、操り方も変わる。今までと同じ動きをしようと思っても、勝手が違う。「本当に飛び込みを辞めたいと思っていました」。翌年の2月に国際大会派遣選手選考会が控えていたが、宮本はボロボロの状態だった。

 

「何もやる気が起きないし、空っぽになった感じです」

 抜け殻となった宮本に喝を入れたのは、4学年上の「憧れの人」だった。宮本の「憧れの人」とは18年からシンクロでペアを組む榎本のことだ。12月、石川・金沢での合宿中、同部屋の2人は話し合った。

「遼香ちゃんからは『オリンピック狙っていないの?』と言われました。もちろん自分でも出たい気持ちはあるのですが、“飛び込みをやりたくない”という気持ちが強かった。それで4時間ぐらい泣きながら話をしました」

 

 約4カ間、溜め込んでいたものを、この4時間で吐き出した。

「相談も全然できていましたし、それまではずっと本当のことが言えていたのに世界選手権をきっかけに、“全部私が悪い。私のせいで負けて、オリンピックに行けんかった”と思ったら、パートナーを見ることができなくなった。そうしたらしゃべれなくなりました。“とりあえず自分でなんとかしないといけない”と考えていたんです。人に相談しても解決する問題じゃない。だけど答えが出なくて悩んでいたんです。すると遼香ちゃんが、『なんでシンクロのパートナーなのにもっと迷惑をかけてくれないの? 一緒に戦っているんだから1人で抱え込まないで』と言ってくれた。『迷惑掛けていいんだよ』とも」

 

 己との戦い

 

 榎本からの言葉に宮本は「救われた気がした」と感謝する。この時、“辞めたい”とまで追い込まれていた感情は、“やりたい”に変わった。“このままじゃダメだ”。宮本のやる気スイッチがカチッと音を立てた。心が整えば、あとは身体と技術をアジャストさせていくだけだ。「段々身体の使い方もわかってきて、やりやすくなりました」。どん底まで落ちたメンタルは完全に立ち直った。そうして2月の選考会を迎えたのだった。

 

 宮本と榎本のペアは安定した演技を5本揃え、自己ベストの295.80点をマークした。2位のペアとは約14点差をつけた。これで宮本と榎本は4月に予定されていたW杯東京大会の出場権を獲得。日本水泳連盟の選考基準では<ワールドカップの結果をもとに、本連盟選手選考委員会が総合判断し内定する>と記されている。海外勢に大差を付けられる内容でなければ、内定は有力と見られている。東京オリンピックに向けて、大きく前進したことは間違いなかった。

 

 世界水泳での挫折が生きた、と宮本は語る。

「2月の選考会もすごく緊張したのですが、“あの時と同じ思いはしたくない”という思いが一番に出てきました。“このまま緊張したままだったら世界選手権と同じになってしまう”と。そこから冷静になれたところもあるし、世界選手権を経験していなかったら、そういう思考にもならなかったと思うんです」

 

 だが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、オリンピック切符を勝ち取るためのW杯東京大会どころか、東京オリンピックすら延期となった。1年延期――。このために調整をしてきたベテラン勢からすれば、大打撃である。他競技に目を向ければ、現役引退を決意する者もいた。宮本のような若手はどう思っているのか。

「調子も上がってきていたので、このままの勢いでオリンピックの出場を決めたかったのが本心です。でも今はその時よりも身体の動きが良い。調子もさらに上がってきているので、1年の延期は良かったと捉えています」

 来年2月に開催予定のW杯東京大会が最終選考会となる見通しだ。まずは9月の日本選手権(新潟)、10月インカレ(大阪)が当面の目標になる。

 

  高いところが好きで始めた飛び込み競技。ただ好きで、ただ楽しくて飛んでいた頃とは背負うものの重さが違う。

「正直なところ、今は競技が好きや楽しいという感情はあまりありません。それはプレッシャーや緊張でしんどくなることが昔より増えたからです。それでも私が競技を続けている理由は目標をクリアした時の達成感と、“勝ちたい”“上手くなりたい”という気持ちの方が、プレッシャーや緊張よりも強いからだと思います」

 他人と戦う前に己と戦いに打ち勝たなくてはいけない。その勇気を蓄えるため、今日も宮本はプールに飛び込み続ける――。

 

(おわり)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

>>第3回はこちら

>>第4回はこちら

 

宮本葉月(みやもと・はづき)プロフィール>

2000年12月25日、高知県高知市出身。小学3年で飛び込み競技を始める。土佐女子中・高を経て、近畿大学に進学。全国中学校体育大会、日本高等学校選手権大会、日本学生選手権大会と各カテゴリーの飛板飛び込みを制した。高校2年時には1m板飛び込みと、シンクロナイズド3m板飛び込みで日本選手権を制覇。1m板飛び込みは現在まで3連覇中。18年アジア競技大会(インドネシア・ジャカルタ)、19年世界選手権大会(韓国・光州)に日本代表として出場した。20年2月、国際大会派遣選手大会のシンクロナイズドダイビング3m板飛び込みで1位。東京オリンピックの選考会となるW杯出場を決めた。身長152cm。

 

(文/杉浦泰介、写真/近畿大学提供)

 

shikoku_kouchi[1]

 

 

 

 

 

 

 

 

 


◎バックナンバーはこちらから