22競技539種目で熱戦が繰り広げられた東京パラリンピックが閉幕した。今回の「二宮清純の視点」は二宮清純と「挑戦者たち」編集長・伊藤数子によるスペシャル対談。課題に向き合い、未来を展望する。

 

――今大会を通じて、一番印象に残ったシーンは?

伊藤数子: 私が印象に残ったのは開閉会式ですね。セレモニーに参加したパフォーマーの方々はいろいろな格好、様々な人たちが登場しました。入場行進での選手の出で立ち、行進の仕方、旗やプラカードの持ち方も様々でした。手を振る人もいれば、足を振る人もいた。それぞれが“できない”を払拭し、“できる”ことを徹底していました。以前、「挑戦者たち」に出ていただいた日本パラ陸上競技連盟副理事長の花岡伸和さんが「障がいにもたくさんの種類があります。人の生き方は多種多様です。戸籍上の性別は男性でも女性として生きる人もいれば、その逆もある。大事なのは“生き方の多様性”を認め合うこと」とお話ししていました。私はその“生き方の多様性”がすごく伝わるセレモニーだったと感じました。

 

二宮清純: おっしゃる通りですね。私が一番興味深かったのは、今大会パラリンピックに初採用された陸上のユニバーサルリレーです。視覚障がい、立位の切断および機能障がい、脳性まひ、車いすの順で男女2名ずつ計4名による混合リレー。この種目は共生社会を実現するという意味では、むしろ今まで実施していなかったのが不思議なくらいです。銅メダルを獲得した日本の第2走者を務めた義足の大島健吾選手は「義足や車いすは特別ではない。いつかオリンピアンと義足、車いすなどの選手でリレーする種目ができればいい」と話していた。この種目がオリンピックとパラリンピックを融合させる接着剤になればいいなと思いました。

伊藤: 確かに共生、多様性を象徴する種目ですね。大島選手が言うように、私もオリンピアンも混ざった種目になればいいと思います。実は2014年に改修前の国立競技場で行われた「SAYONARA国立競技場」というイベントに関わる機会があり、競技としてではなく、ユニバーサルリレーに近い混合リレーを実施しました。その時は障がいの有無に関わらず、いろいろな人が参加しました。パラリンピックの規定の中でのことですからオリンピアンがいないのは当たり前ですが、肌感覚としてはユニバーサルリレーにオリンピアンがいないことの方が、むしろ不自然に思えました。

二宮: 今回のパラリンピックを見た人から「パラリンピック競技にオリンピアンも」という声が高まるかもしれませんね。その意味でも、いろいろな可能性が膨らむ種目だと感じました。

 

――今大会はコロナ禍により原則無観客で行われました。多くの関係者が目指していた「パラスポーツ会場を観客で満員にしたい」という想いは実現できませんでしたが、それでもTV中継、インターネット配信を通して伝わったことも多かったと思います。

伊藤: TVで生中継された種目数は、前回のリオデジャネイロ大会より少なかったかもしれません。ただ、放送が少なかったことを嘆くより、その中身に目を向けるべきだと思います。私が感じたのは視聴者の受け取り方が今までと違っていたことです。番組中に紹介された視聴者の声が「カッコイイ!」「すごい!」といったものだけではなく、「共生社会」「多様性」などに触れたものが多かった。そこに過去のパラリンピックとの違いを感じました。

 

 伝える側の“慣れ”

 

二宮: 今、伊藤さんがおっしゃった「少なかったことを嘆くよりも」という言葉は、“パラリンピックの父”ルートヴィヒ・グットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」と相通ずる部分がありますね。同じくTV中継のことで言えば、私も良い変化を感じました。以前、TV関係者の方が「障がいのある箇所を、カメラで映すことをためらう」と話していましたが、そういうバリアは取り除かれたような気がしました。今回の放送では、ありのままを伝えている印象を受けました。

伊藤: 伝える側の“慣れ”もあると思います。切断面も映っていましたし、障がいにまつわるエピソードも紹介されていました。私は“慣れ”が共生社会を進める原動力のひとつになると考えています。自分と違う人に“慣れる”ことは、違う部分だけに意識が集中することをやめさせてくれます。例えば車いすの人と接する時、何度もお会いするうちに“車いす”が気にならなくなってくる。その“慣れ”がどんどん社会に広がっていくことが理想ですね。

二宮: 確かに“慣れ”は大事ですね。

 

伊藤: これまではパラリンピアン、パラアスリートという大きな括りで見られていた気がします。例えばどの選手に対しても「障がいを乗り越えてきた」と、画一的な表現をしてしまう。でも実際は乗り越えるつもりがない人もいれば、乗り越えられないと思っている人もいる。捉え方は人それぞれ。先ほど申し上げた生き方の多様性ですね。今回のパラリンピック報道では、「障がいを乗り越えてきた」というパラアスリートを大きな主語にして一からげにした表現は少なくなったと感じました。

二宮: そうですね。「乗り越える」ということは、今置かれている境遇が望んだものではないと言っているようなものです。射撃でパラリンピック3大会に出場した田口亜希さんは「“障がいを乗り越えた”“障がいを受け入れた”と言われましたが、決してそんなことはないんです」とおっしゃっていました。安易に「乗り越えた」という表現を使うのは、伝える側の“上から目線”に依るものでもあると……。

 

伊藤: 報道についてさらに言えば、オリンピック・パラリンピックは国・地域ごとの対抗戦ではありませんが、国・地域別のメダル獲得数がランキング化されていますよね。本来これは違っています。今までは特に違和感を覚えなかったんですが、今回のパラリンピックで多様なものを見せてもらった中で、メダルランキングの意味を考えされられました。つまり多様性の表現と、メダル競争がどうもかみ合わないと。そのあたり二宮さんはどう思われますか?

二宮: オリンピックにおいて言えば、厳密にはオリンピック憲章違反なんですよ。オリンピック憲章に<個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない>と記されていますからね。パラリンピックがオリンピックに追随する必要はない。パラカヌーの瀬立モニカ選手の「これはオリンピックと違うところなんですが、パラリンピックの選手として、ただ競技力を上げるだけじゃなくて、共生社会の実現を社会に訴えかけなければいけない」という言葉が全てを物語っていますね。

 

(後編につづく)

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