カープ創設1年目のシーズン中に、二軍選手が一斉に大量解雇となったことは、前回でお伝えした。資金が回らない球団にあって、試合に出場しない選手を大量に抱えておくことはできなかったのだ。先の見えない球団運営にあって、実家までの帰りキップを手渡された選手らにしてみれば、この上なく辛いことであったろう。

 

 引退後の「3ない」

 そのひとり、角本義昭については前回のコラムで解雇前後の詳細を本人の証言を交えて紹介した。今回は彼の引退後、いわゆるセカンドキャリアについて触れてみよう。

 

(写真:1シーズンでカープを去った後の第二の人生を語る角本氏)

 カープを去った角本は、ある一つの決まりを作り、一般人として生きる術を固めた。「野球を見ない、しない、聞かない」の「3ない」を徹底したのだ。

 

 昭和25年8月から戦列を離れた彼は、若干19歳。夢の舞台から放り出され、転落の人生となってもおかしくはなかったが、出直しのきく年齢でもあり、野球への思いを一掃し、第二の人生をスタートさせた。

 

 何事にも実直な姿勢の持ち主であった角本は、カープ入団以前の職場である備後運送株式会社へ復帰の道が得られたのである。

 

 カープ入団の時、母親の流す涙を振り切って、広島に向かった男であるが、野球から離れることを決め、先に記した「3ない」を徹底し、仕事に打ち込んだ。

 

 昭和31年3月、備後運送株式会社に復帰。2年後には営業課主任。5年後には係長、次いで課長とポジションを上げていった。さらに支店長、取締役と出世街道をひた走り、平成3年には、取締役営業開発本部長となり、役員退職する平成5年まで同社で勤めあげた。

 

 退職後は、地域活動にも熱心で、老人クラブにおける活動が認められ、平成25年には福山市労連から永年勤続表彰に加え、広島県労連の理事長表彰として、育成功労賞を受けるなどした。

 

 野球を捨てた中での成功の理由を聞いたが、「戦時下となった中学時代に培われたものが大きかった」と角本。学徒動員で心身共に忍耐の日々を過ごしたという。

 

「我々の学生時代(盈進商)、一年では簿記や、ソロバンをやったかと思えば、二年になって、いきなり建築土木をやらされ、勤労奉仕では、稲刈りや、暗渠排水(工事)にも行きました。また学徒動員じゃいうて、三菱の工場では油の飛び散る中で旋盤を動かしました」

 

 こうした様々な体験から得た座右の銘が「窮すれば、思考して通ずる、通ずれは思考して変ずる」。これをずっと胸に刻んでいた。

 

 自分を磨き続けながら、大好きであった野球と完全に決別したため、角本はカープの初優勝に沸いた黄金期にあっても、そのカープを応援した思い出はほとんどない。「試合すら見ていませんから」と「3ない」を徹底していた。

 

 現在は、孫とのキャッチボールを解禁し、カープ観戦をも解禁した中で、野球を心底楽しめる境地に至ったという。

 

 もうひとり、セカンドキャリアを成功させた人物を紹介しよう。カープの考古学第27回でお伝えした松野保である。

 

 彼は暁の超特急とよばれた吉岡隆徳(昭和7年ロス五輪100m6位入賞)も認めた俊足の持ち主で、角本の故郷・福山市に近い、広島県東部地域にあたる三原市の出身である。

 

 松野が解雇されたのは25年の7月。1軍選手が長期遠征を終え、宿舎に戻ってみると「誰もおらんかった……」という、2軍選手一斉解雇の当事者である。筆者は以前、松野のご子息を取材し、父親の引退後のことを聞いた。野球界を去った松野は、食料品店「まつのスーパー」を営みながら、地域のソフトボールチームの指導など、約20年にわたり、地域のスポーツ少年を育ててきた。ただし、子息・諭の証言によると「母親(サチコ)にも、当時のこと(カープ選手時代)をほとんど何も語らなかった」という。

 

 わずか1年のカープでのプロ経験であったが、地域でカープにいた人だとささやかれてもほとんど、自分からそのことを口にすることはなかった。これは角本の「見ない、しない、聞かない」に通じるものがあるであろう。松野が故人となった今、子息には「あまりにも話さないもんだから、よく聞いておけばよかった」と後悔の念が残っているようであった。

 

 角本、松野はそれぞれ三原市、福山市から入団した選手らで、彼らと同じくカープの本拠地・広島市から遠い広島県東部の尾道市からも昭和27年には選手が入団してくる。こうした地方選手の入団と、その出身自治体から球団への出資金について、興味深い因果関係を発見したので、それは後で紹介しよう。

 

 給料遅配と12連敗…

 初年度のカープは躍進した3カ月間を終え、真に苦しい時期に入っていく。昭和25年の8月戦線である。

 

 7月30日の松竹戦から、8月19日の巨人戦まで実に12連敗を記録した。この負け続けのカープにあって、選手らが心の内に秘めながらもボヤいていたことは、やはり給料の遅配や欠配であった。この時のチームの様子を文献から引くとしよう。

 

<毎日、ミーティングを続けたが、一向に士気はあがらない。給料が遅配になって心身ともに大きなヒビが入ったようだった。名将石本監督がいかにあせってもどうしようもない。「あ~あ」。出るのはタメ息ばかりで「また負けた」という実感さえぼやけてしまうほどだった。「ついていないよ」「敵が打てばボールの球でもヒットになる」「こっちはよい当たりが併殺…」「裏目裏目とでるのだからどうしようもない」

 

 泥沼からはいあがれない選手の話が、つまるところは給料の遅配。「貧すればどんすという言葉どおりだ」「全くタバコ一本吸うのにも苦労するようでは、どうにもならん」。選手全員になかば投げやりな空気が広がりかけていた。

 

 石本監督は慌てた。会社と強談判してなにがしかの金をもらい、各選手の給料に比例した分割払いで急場をしのぐのであった>(「カープ十年史『球』35回」・読売新聞)

 

 カープの経済情勢に陰りが見える中、世界情勢にも動きがあった。

 

 朝鮮半島において韓国軍は北朝鮮との戦いで劣勢に立たされ、国連軍の総指揮官としてダグラス・マッカーサーが指揮をとることになった。彼の指揮の下、韓国軍が戦うこととなり戦闘体制にも変化が見られた。8月1日の中国新聞が伝えているのは<原子力戦を準備>とあった。この時期、米国とソ連が競って核兵器開発に乗り出していた最中である。戦争で再び原爆を使おうとしているのか――。

 

 当時は連合国の占領下にあり、現在のように被爆者らが大きな声を発することは到底できなかった時代である。揺れ動く周辺情勢の中で、5年目となる原爆投下の平和祈念の日を迎える直前、平和祭(現・原爆記念式典)の中止が決まった。<平和祭取りやめ>と、8月3日付の中国新聞は伝えている。これは「原子力戦」発言に対する、被爆地・広島が「二度と原爆を使ってはならない」と精一杯の抗議の場として、平和祭に挑むつもりであったことへのなにがしの圧力がかかったのであろう。

 

 要は平和祭で、原子力使用の反対を掲げることこそ、広島の役目であった。筆者の推察も交えるが、原子力に頼った戦いに、真向から反対をされては、米国としては、動きがとれなくなる可能性がある。ならばと、平和祭をはじめ、さまざまな平和を祈る集会が禁じられているのだ。当時の文献には、他の集会でさえ、治安上の理由から禁止されたことが記されている。

 

 話をカープに戻そう。アジアの隣国で戦火が燃え盛る中、負け続けのカープ。8月22日、四国は香川の丸亀球場での試合は最下位争いをしている国鉄が相手だった。

 

 広島の先発・長谷川良平が好投する中、三回裏には長谷川自らがレフトオーバーのホームランを放ち、投げては五回までに7つの三振を奪うなど投打で奮闘した。序盤は長谷川の独り舞台となった。四回にも1点を加え、カープナインは「今日こそは」と盛り上がりをみせた。

 

 七回表、国鉄が藤田宗一の二塁打や、森谷良平の敬遠フォアボールなどで満塁とし、カープは2点を返され同点に追いつかれたものの、8回裏に四番・辻井弘のバント安打を皮切りにヒットが続いて勝ち越し。3対2と逆転で、久々の勝利をもぎとった。

 

 翌23日は、愛媛の松山に移動しての国鉄戦で、後に球界の大エースとなっていく金田正一のデビューの日であった。5対5となった試合で、新人の金田は8回から登板。8回は抑えたものの、9回に緊張があったのか、2人をフォアボールで歩かせてしまい、<坂田(清春)の中前サヨナラヒットで押し切った>(中国新聞・昭和25年8月24日)。カープはサヨナラ勝ちで、連勝。なんとか四国のファンの前で体裁を保ったのだ。

 

 出資金の背景

 こうして、まさにどん底の戦いを続けるカープに、久々の朗報が舞い降りた。正式にカープが、株式会社化されることとなり、昭和25年9月3日に「株式会社カープ廣島野球倶楽部」が誕生した。給料の遅配や欠配が続いた選手らにとって、待ち望まれた瞬間であった。株式会社となった際のことは、次回の考古学で詳述する。

 

 球団の株式会社化が遅れた大きな原因の一つは出資金が思うように集まらなかったことである。これは第8回の考古学の一覧表で詳述したが、この出資金は広島県が先頭を切って議決して出資し、広島市も続き、呉市までがこの8月までに一応の議決を終え、出資を済ませていた。

 

 この後の出資は福山市、三原市、尾道市の順番となるのであるが、実は地元出資と地元入団選手との間には相関関係が見られる。右の一覧表をご覧いただきたい。

 

 カープは福山市出身の箱田義勝と角本を入団させ、福山市は出資金である70万円をカープ初年度の終わる昭和25年10月24日に議決し、出資した。三原市も同様である。地元の松野を入団させて、9月21日に議決し、出資された。だが、尾道市は出資金が議決されたのは、シーズン3年目の10月で、このときに60万円を出資している。

 

 尾道市にあっては、地元・尾道商から大田垣(後に備前)喜夫と榊原盛毅が入団したが、それが昭和27年のことで、出資がなされたのも同年である。このように選手入団時期と出資時期が重なっていることから、地元から選手を入団させるから出資金を出してもらえないか。じゃあ、出しましょう--という因果なのである。こうした苦肉の選手集めと資金集めの手法は、唯一といえる市民球団であるが故の苦肉の策であったのだろう。


 いずれにしても、カープは最初のシーズンを戦いながら、シーズン終盤になってやっと株式会社の体を整えた。しかし、一難去ってまた一難。苦難のいばらの道は険しさを増し、球団は持ちこたえるというのがやっとという時を過ごしていくのである。
 カープ創立初年度のシーズンも終盤に入る。いばらの道の先にはいったい何が待っているのか? 驚愕のエピソードを交えながら、次回、詳細に解説していきたい。乞うご期待。(つづく)

 

【参考文献】 カープ50年―夢を追ってー(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和25年7月20日、8月1日、8月3日、8月24日)、「カープ十年史『球』35回」(読売新聞)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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