秋の気配がグッと深まったこの頃、球界からは「引退」の報せが多く届いています。ドラフト会議で指名され新たにプロの門をくぐる若者がいれば、その分、去っていく選手がいるのは球界の必定です。引退選手の中でも、やはり"平成の怪物"こと松坂大輔の引退は寂しい限りです。今回の球論はまずはこの怪物くんの思い出からお話しましょう。

 

 セオリー無視の1-6-3

 松坂が指名された98年秋、私は西武のコーチを務めていました。ドラフト当日はちょうど西武百貨店のお客様サロンにいて、時間になったので「ちょっとテレビを」とお願いして、指名の行方を見守っていました。西武、日本ハム、横浜の3球団が競合してくじ引き。それで西武が当たりくじを引いた瞬間、「よっしゃー!」と叫んでましたよ。百貨店の皆さん、あのときはお騒がせしてすみませんでした(笑)。

 

 そして迎えた春季キャンプ。まあ大輔フィーバーはものすごく、谷中真二が18番のウインドブレーカーを着て影武者になってファンを巻いたり、ホテルのエレベーターも松坂は業務用を使ったりしていました。で、キャンプ中のある晩です。知人から頼まれたサインをもらおうと、松坂の部屋を訪ねました。彼の部屋にはすでに300枚くらいの色紙が積んでありましたが、「いいですよ。でも、ちょっとゲームしてるので待っててください」と。

 

 そのとき松坂は野球ゲームをしていて、松坂が守備側で1死満塁の場面。ここでピッチャーゴロに打ち取ったんですが、それを松坂は二塁に投げ1-6-3のゲッツーにしました。普通、セオリーならホームゲッツーです。ホームにまず投げれば、万が一ゲッツーがとれなくても1点を失うことはありませんから。

 

「大輔、ゲームだけどそこはホームゲッツーやろ」と言ったんですよ。そしたら彼は「いや、康友さん、違うんです。ピッチャーゴロ、特にグラブの方に来たゴロだったらホームに投げるよりもセカンドに投げたほうが速いんです」と。確かにピッチャー前のゴロだと1歩ステップが増え、案外バックホームはやりにくい。「こいつ、そこまで考えてんのか……」と、その野球センスに驚いたもんです。

 

 でも、現実の試合で満塁で1-6-3を決めようとしたら、ショートに前もって「放るぞ」と言っておかないといけないし、そのあたりの決め事をきちんとする必要があります。そういって松坂を論破することはできたんでしょうが、大人げないのでやめておきました(笑)。その野球センスに驚くと同時に、まだ高校も出ていないルーキーが、コーチにそんなことを言うのにも驚きました。相手が2つ3つ上の先輩だったらまだわかりますけど、コーチですからね。あのあたりの物怖じしない感じも大物でした。

 

 甲子園春夏連覇とか決勝でノーヒットノーランとか、立ってきた舞台の大きさが違ったんでしょう。怖いものなんてあるはずがないですよ。イチローを打ち取り「自信が確信に変わりました」と言いましたが、それも納得の強心臓ぶりでした。

 

 で、ご存知のようにルーキーイヤーから3年連続で最多勝に輝くなど、期待に違わぬ活躍ぶり。そして04年にはアテネ五輪代表として銅メダル、さらに06年にはWBCで世界一、07年にはレッドソックスでワールドシリーズを制覇して、09年にはWBCで2回目の世界一に輝いた。本当に日本を代表するスーパープレーヤーでしたね。

 

 ただ、晩年は故障もあって15年から日本に戻り、福岡ソフトバンクでリハビリに励むなど苦労しました。ソフトバンクでは私が3軍コーチを務めていて、毎日、彼とは顔を合わせていましたが、2~3時間、黙々とひとりでリハビリをして、そして帰っていく。1軍で投げることもできず、チームに貢献していないという苦しみも当然あったでしょう。見ていて、こっちも辛くなりましたね。

 

 その後、18年に中日に移籍し、この年は6勝をあげてカムバック賞を受賞しました。そして最後は古巣・西武で引退。これほどドラマチックな野球人生を送った選手はいないんじゃないでしょうか。引退試合で投げるところを見ましたが、肩、ヒジ、首がボロボロなのがわかりました。一時代が終わったな、とウルッと来ましたね。お疲れさまでした。

 

 さて、引退とともに秋の風物詩といえば監督人事でしょう。中日の新監督には立浪和義の起用が決まりました。彼も松坂同様に甲子園のスターとしてプロ入りした人物で、中日一筋。すでにいろいろコーチ人事も話題になっており、ドラゴンズ愛あふれる彼にはチームの改革を期待したいものです。

 

 立浪は88年にドラフト1位で入ってきました。このとき私も中日にいましたが、監督の星野仙一さんは内野レギュラーの私やウーやん(宇野勝)に「お前らどけどけ」とばかりに、立浪をショートレギュラーに抜擢しました。ウーやんはセカンドに回り、私はまたスーパーサブ。それでも立浪は足をうまく使う内野手でしたし、なによりもバッティングが良かった。華のある選手でしたね。立浪新監督にも星野さんのような、思い切った若手抜擢を期待したいものです。根尾昂などをうまく育ててほしいですね。

 

 立浪野球はどんなものになるのか? 解説を聞いているととてもわかりやすくて、野球IQの高さが伺え、よく勉強しているなと感じます。私もコーチになってから実感しましたが、野球の技術を言葉にして伝えるのはとても難しい。立浪ならその面でも大丈夫だと思います。

 

 ドラフトにも触れておきましょう。天理(奈良)の達孝太投手が北海道日本ハムから1位指名を受けました。大阪出身ということで本人は在阪球団を希望していたかもしれませんが、日本ハムはご存知のようにダルビッシュ有や大谷翔平を育て上げた実績があります。メジャー志向の達投手にとっては良い入団先じゃないでしょうか。

 

 長身で落差のあるフォークはすぐにでもプロで通用しそうですが、でもまだ線が細い。プロで鍛えて、一回り体を大きくして、それで1軍で活躍してもらいたいですね。メジャー行きの夢を持つのは大いに結構なことですが、でも、日本で結果を出さないことには……。まずは鎌ヶ谷でしっかりと鍛えられてこい。これが天理の後輩へのエールです。

 

 自分のことを振り返れば77年のドラフト会議で進学希望ながら、縁あって巨人から5位指名を受け、プロの道に進みました。指名された直後は「神宮の杜でプレーすること」に憧れがありましたが、12月になって長嶋茂雄監督(当時)が直々に奈良の実家に来られて、「今回、縁あって指名したんだ。4年後はまた指名できるかどうかはわからないし、ケガをしているかもしれない。一緒に野球をやろう」。そして有名な「君は弟のような気がするよ」との殺し文句がミスターから飛び出し、それでプロ入りを決意しました。

 

 そのおかげで選手、コーチ時代を含め14回のリーグ優勝と7回の日本一を経験できました。人生というのは本当にわからないものです。

 

 今年、ドラフトでは128人(育成含む)のアマチュア選手が指名されました。これから厳しくもあり、そして充実したプロ生活が始まります。彼らの未来が輝けるものでありますように祈っています。

 

<鈴木康友(すずき・やすとも)プロフィール>
1959年7月6日、奈良県出身。天理高では大型ショートとして鳴らし甲子園に4度出場。早稲田大学への進学が内定していたが、77年秋のドラフトで巨人が5位指名。長嶋茂雄監督(当時)が直接、説得に乗り出し、その熱意に打たれてプロ入りを決意。5年目の82年から一軍に定着し、内野のユーティリティプレーヤーとして活躍。その後、西武、中日に移籍し、90年シーズン途中に再び西武へ。92年に現役引退。その後、西武、巨人、オリックスのコーチに就任。05年より茨城ゴールデンゴールズでコーチ、07年、BCリーグ・富山の初代監督を務めた。10年~11年は埼玉西武、12年~14年は東北楽天、15年~16年は福岡ソフトバンクでコーチ。17年、四国アイランドリーグplus徳島の野手コーチを務め、独立リーグ日本一に輝いた。同年夏、血液の難病・骨髄異形成症候群と診断され、徳島を退団後に治療に専念。臍帯血移植などを受け、経過も良好。18年秋に医師から仕事の再開を許可された。18年10月から立教新座高(埼玉)の野球部臨時コーチを務める。NPBでは選手、コーチとしてリーグ優勝14回、日本一に7度輝いている。19年6月に開始したTwitter(@Yasutomo_76)も絶賛つぶやき中。2021年4月、東京五輪2020の聖火ランナー(奈良県)を務め、無事"完走"を果たした。


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