ヤクルトと阪神のデッドヒート。29年前の記憶が甦る。

 

 わたしが所属していた専門誌では、Jリーグ発足を翌年に控え、各チーム担当記者を決めよう、ということになった。

 

 担当決めは、極めて単純な方法で行われた。つまりは自由競争。早い者勝ち。

 

「じゃ、俺はガンバで」

 

 そう宣言すると驚かれた。担当決めは自由競争ではあるものの、平等ではない。社歴の長い者に優先権があった。なので、ヒラの中では最年長だったわたしが、ヴェルディやマリノスを選ばなかったのが意外だったらしい。

 

「ガンバ希望は他にいない? じゃ、俺でいいよね」

 

 無事に希望が通り、胸をなで下ろした。わたしはどうしてもガンバの担当になりたかった。高校時代から惚れ込んでいた磯貝洋光が入団を決めていたというのも大きかったが、何より、この年の阪神が優勝争いをしていたからだった。

 

 ガンバの担当になれば、ついでに甲子園にいける。いまとは違い、関東のファンが甲子園での阪神を見るには、自ら足を運ぶしかない時代だった。

 

 この年、いわゆる“亀新フィーバー”を巻き起こした立役者の一人、亀山つとむさんとは後に何度も酒席をご一緒させてもらうことになった。当時の阪神の選手はJリーグをどう見ていたのか、聞いてみたことがある。

 

「いやあ、羨ましいですねえ」

 

 当時の阪神は暗黒時代だった。選手のギャラは、決して高いとは言えなかった。嘘かマコトかはともかく、漏れ伝わってくるJリーガーのギャラは、少なくとも阪神では聞いたことがないレベルだった、というのだ。

 

 Jリーガーの高給ぶりを羨んだのは亀山さんだけではない。当時、海外で取材するたびに外国人選手、あるいはエージェントからの売り込みを受けた。ガンバでプレーしたロシア人、ツベイバの自宅にお邪魔した際は、「日本人の記者が来ているなら俺に紹介してくれ」という連絡が、何本もツベイバの携帯に届いていた。

 

 発足した93年当時、Jリーグの市場価値はプレミアリーグとほぼ同等だった。だからリネカーがやってきた。信じられない気もするが、そういう時代が確かに存在した。

 

 あの頃、アビスパとホークスの選手が受け取るギャラに、いまほどの違いがあっただろうか。ベガルタとイーグルスではどうだろうか。

 

 日曜日の朝、スポニチが1面でぶち上げたJリーグの“ホームタウン制撤廃”の一報には度肝を抜かれた。まじか、そりゃねえだろ、というのが率直な感想だった。

 

 ただ、選手やスタッフの収入面でプロ野球に完全に逆転され、プレミアには見えないぐらい引き離されてしまったJリーグの未来を考えた場合、新しい一手を考えるのは当然のことでもある。その際、思考に限界を設けるタブーは取り払っておいた方がいい。

 

 Jリーグの理念は、日本経済が強く、欧州が疲弊している時代に作られた。中国の台頭はなく、中東も問題にならない時代だった。

 

 守るべきものは守りつつ、しかし、原理主義に陥るべきではない、とわたしは思う。29年前といまは違う。そうだ、絶対に違う。だからたぶん、今年のペナントの結果も、29年前とは違ったものになる。

 

 なってほしい。

 

<この原稿は21年10月21日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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