車いすバスケットボール日本代表としてパラリンピック4大会に連続出場した神保康広氏は、国内外でパラスポーツと車いすの普及活動に尽力している。国内の車いすメーカーに勤め、これまで数々の競技用車いすを企画、開発、販売し、退職後も講演や普及イベントに参加するなど様々な活動を通じてパラスポーツに関わってきた。今年2月にはパラスポーツの普及に欠かせない車いす(道具)をサポートしたいと、車いすフィッター&ディーラー「風輪道墨田出張所」をオープンした。その神保氏に普及活動への思いを訊いた。

 

二宮清純: 今年行われた東京パラリンピックで、車いすバスケットボール男子日本代表は銀メダルを獲得しました。神保さんの後輩たちの活躍は目覚ましかったですね。

神保康広: 僕自身、代表でプレーしていたこともありますが、ヘッドコーチの京谷和幸は千葉ホークスの後輩でした。僕がキャプテンをやっていた頃に、彼が見学に来て、そこからバスケを一緒にやるようになりました。監督の及川晋平も後輩ですし、ベテランの香西宏昭も中学生の頃から知っています。その意味で今回の日本代表の活躍は感慨深いものがありましたね。

 

伊藤数子: 神保さんは日本代表以外にも車いすバスケのチームと関わりがあり、イギリス代表にはサポートスタッフとして世界選手権などの国際大会に帯同されていたこともあるそうですね。

神保: イギリスには前職の松永製作所に勤めていた2018年の時から関わるようになりました。日本で行われた三菱ワールドチャレンジカップに出場したイギリスの選手に「松永の車いすはどう思う?」と聞いたら「日本の車いすは皆良いと言うのに、なんで海外に出てこないんだ?」と言われたんです。その時に仲良くなった2人の選手に「ウチの車いすに乗ってみたい?」と話をすると、「YES」と返事がきた。僕は東京パラリンピックを機に世界へアピールすることが必要だと思っていたので、会社を説得しました。それで松永の車いすを、イギリスへ直接持って行ったんです。

 

二宮: 現地に乗り込んでいったわけですね。

神保: シェフィールドにあるイギリス車いすバスケットボール連盟に持って行くと、イギリス代表チームからは「明日乗るから、一緒にやろう」という返事をもらった。僕らは「10時に来てくれ」と言われ、一旦ホテルに戻りました。翌朝、いてもたってもいられず8時半に行ったら、実は既に彼らは練習を始めていた。それを遠くから見ていたら、僕たちが持ってきた車いすと元々使っていた車いすの2台の性能を比べていたんです。約束の10時になり、何食わぬ顔をして彼らの元に向かったら「おめでとう」という感じのリアクションだった。代表のスタッフに「2人ともオマエのところの車いすに乗りたいと言っている」と言われ、正式に松永の車いすを使ってもらえることになったんです。そこから他の選手からも「乗りたい」と言ってもらえるようになり、最終的には男女の代表チームのほとんどの選手が松永の車いすを使ってくれることになりました。

 

 イギリスとの交流

 

二宮: 既製品を持っていったとはいえ、選手から細かいリクエストが来たら対応しなければいけませんよね。メカニックの部分も担当していたのですか?

神保: 僕もプレーヤーとしてやっていたので、どういうものがいいかというのはだいたいわかっていました。それに、これまでたくさんのスポーツ用の車いすを採寸した経験があります。元々競技だけでなく、車いすに興味を持っていたから他社の車いすの構造も、国際大会に行った際には写真を撮ったりして、何がどう作用してどう良くなっているかを研究していました。そうしたバックボーンがあったので、この時も選手のプレースタイルや障がいの程度による持ち点を踏まえ、微調整を行いました。

 

伊藤: そうやって信頼を積み重ねっていたわけですね。

神保: そうです。僕がアドバイスしたことにトライし、選手の動きが良くなればチームからの信頼度も増していきました。その積み重ねにより選手たちは僕が体育館にいると必ず相談に来てくれるようになりました。僕が解決できないことであれば、本社から案を出してもらう。イギリスの人たちは「自国にもメーカーがあるけど、こんなに熱心に丁寧にやってくれた会社はなかった。私たちは松永に乗り続けます」と言ってくれましたね。うれしかったです。

 

二宮: 東京パラリンピックで日本は男女ともにイギリス代表に勝ちました。気持ちは複雑だったのでは?

神保: そうですね。僕の中では日本がとか、イギリスがとか、というよりも関わっている選手たちを応援したかった。その意味では日本の選手もイギリスの選手も頑張ってほしいと思っていました。

 

伊藤: イギリス代表チームは車いすの背もたれの部分にカタカナで名前を刺繍していました。

神保: あれは実は僕のアイディアなんですよ。男子のヘッドコーチ兼選手だったギャズ・チョウドリーが「日本語の文字を入れられたりするのかな?」と聞いてきた時にひらめきました。東京で行われるパラリンピックなので、日本語で名前が入っていれば日本の人たちも親近感を持って応援してくれると思ったんです。それで代表チームに提案したら、「OK」の返事をもらえた。コミュニケーションの中でそうしたことが実現でき、これまで築いてきた絆の深さを感じましたね。

 

二宮: 日本の車いすが世界に向かっていく流れもある中で、メーカーを離れたのは?

神保: 国内の車いすメーカーが今後も生き残っていくためには、海外の市場に挑戦することは重要です。メーカーの中にいて、それに関わることも非常にやりがいのあること。ただ僕個人としては車いすメーカーとして働く以外にも、パラスポーツの普及活動をもっと世界に飛び出してやりたかったんです。

 

二宮: 今年2月には車いすフィッター&ディーラーの「風輪道墨田出張所」をオープンしたそうですね。

神保: パラスポーツの普及においては欠かすことができない車いす(道具)をサポートしたいという思いから始めました。これまで車いすメーカーで培ってきた経験を生かし、プロの視点から顧客にいろいろとアドバイスをさせてもらっています。今でも古巣の松永製作所には感謝していますし、手伝えることがあれば何でも手伝いたいと思っています。

 

(後編につづく)

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神保康広(じんぼ・やすひろ)プロフィール>

風輪道墨田出張所代表1970年、東京都出身。1986年、バイクの自損事故により、両下肢機能障がいで車いす生活となる。1988年、車いすバスケットボールを始め、1990年から千葉ホークスでプレーし、6度の全国制覇に貢献した。日本代表としてパラリンピックに1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと4大会連続出場。2000年、アラバマ州レイクショア財団研修生として渡米、障がい者スポーツの指導法を学んだ。またNWBA(全米車いすバスケットボール協会)のデンバー・ナゲッツに在籍し、2002年の全米選手権ベスト4入りに貢献した。その後はアジア、アフリカで車いすバスケットボールの普及活動及び選手指導を行っている。パラスポーツの普及活動や発展途上国における活動も視野に入れ、NPO法人「WITH PEER」理事に就任。今年2月には車いすフィッター&ディーラー「風輪道墨田出張所」をオープンし、採寸・販売を手掛けている。

 

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