伊藤数子: 車いすメーカーを離れた後も、車いすを販売するお仕事を続けられています。その理由は?

神保康広: 僕は昔から“カッコイイ車いすに乗ってみたい”という思いがあり、車いす自体に興味を持っていました。今年2月に車いすフィッター&ディーラー「風輪道墨田出張所」をオープンしたのも、“車いすをもっといろいろな人に乗って欲しい”という思いがあるからです。

 

二宮清純: 元々、選手時代は市役所に勤められていたそうですね。

神保: はい。公務員時代は競技中心の生活というわけにはいかず、「車いすバスケと仕事が一緒にならないかな」と思っていたんです。ただ車いす関連の会社を興すにしても、知識やノウハウもなかった。箔をつけるという思いもあり、2000年にアメリカ留学を決めたんです。そこで障がいのある子供たちの指導法を学びながらプロを目指しました。そんな時、オーエックスエンジニアリングの石井重行社長(当時)に出会い、「仕事をしなくてもバスケを頑張って、開発に関わっていいものをつくれば給料を払う。アメリカで思い切ってプレーしてみろ」と言われ、雇ってもらえた。それでアメリカでプレーしながら車いす開発に関わり、オフの時期は日本でプロモーション活動も行う。それからずっと車いすに関わる仕事を続けていますね。

 

二宮: 車いすが進化していっている一方で、車いす競技を受け入れる環境が整っていないという話を聞いたことがあります。

神保: まだまだ厳しいですね。日本財団のパラアリーナは朝から晩まで自由に使えるのですが、他の体育館だと車いすは床が汚れる、傷が付くという理由で使わせてくれないところが多いですね。使えるところは福祉センターなど障がいのある人に特化した体育館を除くと、東京都内では限られてきます。

 

伊藤: ある体育館では車いすバスケットボールの練習ができていたんですが、改修工事を機に床を張り替えた。すると車いすでの練習ができなくなったと……。

神保: 僕も別の場所で同じ話を聞いたことがあります。その時は今まで使っていた人たちが交渉したら、使えるようになった。車いすでブレーキングをすると床に塗ってあるニスが溶けてざらざらになるのは事実なんです。それをどう捉えるか。海外だとニスが塗っていなくて、外履きで入るところが多いんですよね。中も外も一緒という感覚なんです。

 

二宮: 海外では上履きに履き替える文化があまりないんでしょうね。日本では“汚すな”という考えが強すぎる気がします。

神保: 今もそういう考え方の人が多い。日本財団が建てたパラアリーナに行くと、できて3年しか経っていないのですが、床は決してキレイじゃない。

 

伊藤: それだけいろいろな人に使われている証拠ですから、むしろ誇らしいです。

神保: 全国の施設もそれを良しとしてくれるんだったら、もっとパラアスリートに開放してくれるんでしょうけど……。少しずつ理解も得られるようになっていけばいいですね。

 

 自分宛の年賀状

 

伊藤: ところで神保さんは毎年、自分宛に年賀状を出しているそうですね。

神保: 自分を見失わないように、自分の思いを貫くために書いています。日本車いすバスケットボール連盟に関わっていたスポーツドクターの辻秀一先生に「しっかり目標を持ち、ゴールを設定し、どれだけ貫けるかが大事なポイントだぞ」と、ずっと言われました。だから座右の銘である「自分らしく、自分のために、自分の人生を生きる!」というメッセージを、自分宛に送っているんです。

 

二宮: 初心を忘れないためでしょうか?

神保: そうですね。それに僕は多様性イコール、みんなが自分らしく生きられることだと思うんです。いろいろな人がいる社会において、僕自身、自分らしく生きていきたいですし、そういう人たちが増えてくれたらいいという単純な発想なんです。

 

二宮: 今後も“自分らしく”活動をしていきたいと?

神保: もちろんです。発展途上国での活動も視野に入れ、来年からはセネガルへ行く予定です。環境が違う中でも皆が自分らしく生きられるように、少しでも貢献できたらいいなと思っていますし、それをライフワークにしようと考えています。

 

二宮: セネガルでは具体的にどのような活動を?

神保: 車いすバスケットボールの普及をメインに考えています。2006年に国際協力機構(JICA)の活動に関わった縁があって、アフリカの特派員をやっていた人から、セネガルの情報を教えてもらっていたんです。元々、サッカーとバスケットボールが盛んな国なのですが、車いすバスケットボールに関しては、車いす自体が少なく、コーチもいないらしい。僕は代表クラスのコーチングはできませんが、パラスポーツを楽しむところからスタートし、ある程度の基礎を教えることはできる。“競技を続けよう。この先も頑張っていこうかな”と思うところまではサポートしたいと考えています。

 

二宮: パラスポーツの環境を整えていくことで、日本の車いすの良さも知ってもらえますね。

神保: それもあります。向こうに車いすを持っていけるチャンスをつくり、古巣の松永製作所にも協力してもらえたらと考えています。今でも「風輪道墨田出張所」では、松永の車いすを売っているので、車いす業界全体がボトムアップすることに繋がれば、なおうれしい。

 

伊藤: 普及活動を国内だけでなく世界へ向けられたのは?

神保: 生きているうちに、いろいろな国に行っていろいろな人を見てみたいという気持ちがあるからです。僕からすれば、やりたいこと、楽しいことをいかに自分の生活の中で、人生の中で実現していくかしか考えていない。先ほど、お話した“自分らしく生きる”ということのひとつです。それにお世話になった先輩の影響もあります。

 

二宮: その先輩とは?

神保: 日本車いすバスケットボール連盟のGM小瀧修さんです。僕は車いすバスケットボールを始めて、たくさんの人に応援してもらい、いろいろな人が環境をつくってくれましたが、その恩人のうちのひとり。僕が運転免許を取得するまで、車で送り迎えをしてくれた。何度もお礼を言っていたら、「オマエがやってもらって良かった、ありがたい感謝していると思っていることは、後輩たちに引き継げ」と返されたんです。毎年、お中元などを送っていると「そういうのはいらない。その代わりオマエが自立したら、後輩たちの面倒を見ろ」と言われたことが、ずっと頭の中にありました。いろいろな活動に関わっていくうちに、東南アジアやアフリカが大変な状況にあると知った。日本で普及活動に力を尽くしている人はたくさんいます。それなら僕はこっちの道を行こうと。自分がしてもらった恩を、別のところで返しているだけなんです。今後もその恩を忘れず、自分らしくパラスポーツの普及を頑張っていきたいと思います。

 

(おわり)

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神保康広(じんぼ・やすひろ)プロフィール>

風輪道墨田出張所代表1970年、東京都出身。1986年、バイクの自損事故により、両下肢機能障がいで車いす生活となる。1988年、車いすバスケットボールを始め、1990年から千葉ホークスでプレーし、6度の全国制覇に貢献した。日本代表としてパラリンピックに1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと4大会連続出場。2000年、アラバマ州レイクショア財団研修生として渡米、障がい者スポーツの指導法を学んだ。またNWBA(全米車いすバスケットボール協会)のデンバー・ナゲッツに在籍し、2002年の全米選手権ベスト4入りに貢献した。その後はアジア、アフリカで車いすバスケットボールの普及活動及び選手指導を行っている。パラスポーツの普及活動や発展途上国における活動も視野に入れ、NPO法人「WITH PEER」理事に就任。今年2月には車いすフィッター&ディーラー「風輪道墨田出張所」をオープンし、採寸・販売を手掛けている。

 

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