創価大学陸上競技部駅伝部は、今年1月の第97回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)で、往路優勝、総合2位という好成績を挙げた。4回目の箱根駅伝ながら名門校を抑えての大躍進。創価大駅伝部のヘッドコーチを務める久保田満は2010年に就任以降、瀬上雄然前監督(現・総監督)と榎木和貴監督を支えてきた。チーム改革に着手し、14年度の箱根駅伝初出場、19年度のシード権獲得、そして昨年度の総合準優勝に貢献した指導者だ。

 

 2021年1月2日、東京・大手町の読売新聞社前を21本の襷が号砲と共に駆け抜けた。前年度9位に入っていたものの、この時点で創価大の快進撃を予想した者は少なかっただろう。優勝候補に挙げられていたのは駒澤大学、青山学院大学。創価大のエントリーメンバー上位10人による1万m平均タイムは、出場20校(+関東学生連合チーム)中13番目だった。公認記録による自己ベスト1万m28分以内の選手は3人しかいなかった。

 

「練習のタイムトライアルで28分台を出した選手が何人かいました。さらに本番に向け、選手たちの調子も上がっており、チーム内の競争も激化していたんです。“本番を見てろよ”との思いはありました」

 久保田によれば、選手間で「往路優勝あるんじゃないか」と口にすることもあったという。スタッフ陣は選手たちに芽生えた自信を否定せず、「いけるよ」と背中を押して本番を迎えたのだった。

 

 前回の4区区間4位の福田悠一(当時4年)、エースのフィリップ・ムルワ(同2年)、前回10区区間賞の嶋津雄大(同3年)、「激坂最速王決定戦」を制していた三上雄太(同3年)らを擁した往路は期待通りの走りを見せた。1区から区間3位、6位、3位、2位、2位と5区間すべてで6位以内と抜群の安定感で、どこよりも速くトップで駆け抜けた。

 

 久保田はポイントとなった区間に3区の葛西潤(当時2年)を挙げた。

「1区、2区と期待通りの走りをしてくれた中、3区の葛西が一時、東海大学に抜かれた。それでも彼はズルズル落ちていかず、粘りの走りで区間3位。2位で襷を繋いでくれた。4区は嶋津、5区には“激坂王”の三上が控えていたので、アクシデントがない限り、逆転し逃げ切れると思いました」

 

 箱根駅伝直後の“気遣い”

 

 初の往路優勝で勢いをつけた創価大は、翌日に行われた復路でもトップをキープし続けた。4年生の原富慶季が7区2位、石津佳晃が9区区間賞の走り。2位の駒澤大学とは3分以上の差がついた。“まさか”の総合優勝が一気に近付いたが、ドラマは最終区にも起こった。アンカーの小野寺勇樹(当時3年)が区間20位とブレーキ。残り約2kmというところで駒大に逆転を許してしまった。

 

 フィニッシュ地点の大手町――。13年ぶりの総合優勝に沸く駒大から52秒遅れて、小野寺はフィニッシュテープを切った。総合2位は創価大史上過去最高の成績であり、誇っていい結果だ。チームが目標に掲げていた「総合3位」も達成できた。とはいえ逆転を許した小野寺の胸中は察するに余りある。レース終了後のチームミーティングが始まる前、チームメイトの輪の中心に敢えて彼を置いたのは久保田だった。

 

「周りの選手たちも小野寺に気を遣って話し掛けづらそうな雰囲気がありました。本人を含め、皆が心の中に溜めているものがある。そう感じたので、小野寺たちと話をしました。すると彼の目から涙が溢れてきた。小野寺がグッと我慢していたところを、“泣いていいんだよ”という状況をつくるために、わざと仕向けたんです」

 そっとしておく選択肢もあっただろう。だが久保田は“溜めずに吐き出せ”と小野寺に促した。それは自身も長距離ランナーとして酸いも甘いも経験してきたからこそできた“気遣い”と言えるかもしれない。

 

「我慢、集中、継続」

 これは久保田が現役時代、強く意識していたことである。「今でも自分の信念として心に残っています」。現在の指導哲学にも通ずるものがあるという。

 

 自然溢れる高知県中村市(現・四万十市)で生まれ育った久保田は、中村中学で陸上部に入部。それが本格的な陸上のスタートラインだ。小学生時代、校内のマラソン大会では負けたことがなかったという。走ること、特にスタミナには自信があった。元来は目立ちたがり屋な性格。「自分が一番輝けるステージ」。それが陸上だったのだ。

 

(第2回につづく)

 

久保田満(くぼた・みつる)プロフィール>

1981年9月30日、高知県中村市(現・四万十市)出身。中学から陸上競技を始める。中村中では高新中学駅伝競走大会に3大会連続出場。2年時からの2連覇、全国大会出場に貢献した。高知工業高校入学後は、全国高等学校駅伝競走大会に1年時から出場。3年時にはエースとなり、陸上部のキャプテンを任された。東洋大学では3年時に駅伝主将に抜擢され、東京箱根間往復大学駅伝競走に2度出場。2年連続シード権獲得に貢献した。卒業後は実業団の名門・旭化成に入社。2年目に初マラソンを経験し、07年にはびわ湖毎日マラソンで日本人トップの6位に入り、世界陸上競技選手権の代表に選出された。10年3月に現役引退。同年10月、旭化成からの出向というかたちで創価大学駅伝部コーチに就任した。14年から同大駅伝部の専任コーチとなり、現在に至る。

 

(文/杉浦泰介、写真/本人提供)

 

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