岸川登俊(白寿生科学研究所アスリート事業推進部)第143回「私が見てきた超一流の男たち・村田修一その2」

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 皆様、白寿生科学研究所の岸川でございます。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 皆様の年末年始はどのようなかたちでお過ごしになりましたか?

 我が家の年末は、私以外は妻の実家(京都)に帰省する予定で1人のんびりしようと思っていました。しかし今シーズン最大級の寒波による大雪が予想され、家族の帰省は見送ることになりました。実際、妻の実家は1メートルを超える積雪。汽車などが停まるなど行っても帰れない状況だったそうです。

 

 結局、昨年と同様に数日かけての大掃除ざんまいとなり、気分良く新年を迎えることができました。

 

 そして今月からNPBも2022シーズンに向けたキャンプが始まっております。

 年始からオミクロン株が急拡大しているため、いろいろと制限がある中での生活は精神的にも厳しいとは思いますが、体調管理には充分気を付けて過ごしていただきたいと思います。

 

 前回に続き村田修一選手の話しを書いていきたいと思います。

 2016年のシーズンから高橋由伸兼任コーチが原辰徳監督の辞任に伴い監督に就任することになり、私は改めて村田選手の個人練習パートナーを務めることになりました。

 前年のシーズン後半から個人練習を始め、本人は自分自身のチェックポイントが明確になっていました。その点を情報共有し、キャンプ期間は全体練習後、時間をかけて丁寧に打撃フォームを固めていきました。

 

 そしてオープン戦では、若手の岡本和真選手とのレギュラー争いを制してシーズンに突入。個人的な目標として打率3割を掲げ、ホームランよりも打点にこだわりました。開幕当初こそは7番サードでしたが、シーズン序盤から安定した成績を残すと打順もクリーンアップに返り咲き。再び輝きを取り戻した村田選手は終わってみれば打率3割2厘、25本塁打、81打点とチームの二冠となりました。個人の目標を見事クリアして前年の悔しさを晴らしましたが、チームは2位となり、クライマックスシリーズ(CS)でも敗れてシーズンは終了しました。

 

 私自身もこのシーズンにかける村田選手の力になりたいと、ともに戦ったつもりでしたので、彼が成績を出した時、正直嬉しいというよりはホッとしたのが本音です。

 

 その年のオフ、通算2000本安打(名球会)も視野に入れようとしていた時に村田選手に再び試練が訪れます。東北楽天に在籍していたケーシー・マギー選手の獲得を球団が発表したのです。ポジションはサード、村田選手の新たなライバルの出現でした。

 

 実績があり、前年に成績を残した村田選手でさえレギュラーが確約されない。本当に厳しい世界です。キャンプでスイングをつくり、シーズンに向かっていったものの、開幕スタメンの座はマギー選手に奪われました。プロ1年目からスタメンで出場してきた村田選手は改めて野球の難しさに直面するのです。昨年まではスタメンに名を連ね複数回の打席に立ち、試合の流れに乗って試合に臨めていました。しかし、途中出場や代打は試合展開、状況、点差など様々な場面での起用が考えられます。コーチからの指示もありますが、選手自身で出番を予測し、準備と気持ちをつくっていかなければなりません。

 

 ベンチスタートでモチベーション上がらないこともありましたが、その時には“絶対出番が巡ってくる”と励まして、その時を待っていました。

 

 そんな中、5月下旬から交流戦に入ります。指名打者制があるパ・リーグ主催試合ではスタメンの出場機会が増えるので、ここをチャンスと窺っていました。チームは4連敗で交流戦に突入します。

 村田選手はスタメンの座を奪い、3試合連続本塁打を放つなど活躍しますが勝利には結びつきません。

 

 チームは連敗を重ね、球団記録の13連敗という不名誉な記録を作ってしまいました。一方で村田選手には交流戦後も出場機会が巡ってきました。チームの借金が11までに膨れ上がったことで、サードのマギー選手をセカンドにコンバートし、サードに村田選手を使う超攻撃型の打線を組んだのです。

 

 ここで私は村田選手に残りシーズン、100安打を目標に戦い抜こうと提案しました。

 モチベーションを上げることがチーム、ましてや本人の2000本安打に繋がっていくと思ったからです。

 

 打線を組み替えたチームは49勝35敗で貯金14を作りましたが、CS出場に一歩及ばず4位。CS導入以降初のBクラスとなってしまいました。そして村田選手は打率2割6分2厘、15本塁打、58打点をマーク。安打数は100で、通算1865安打となりました。この先の2000本安打に望みを繋いでいくと思ったのですが、球団の出した決断は!?

 

 今回はここまでといたします。

 皆様、厳しい状況が続いていますが、必ず光が差し込むことを信じて日々生活していきましょう。

 

<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職はアスリート事業推進部所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。

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