パラアイスホッケー(旧アイススレッジホッケー)日本代表として、バンクーバーパラリンピックで銀メダルを獲得した上原大祐さん。底抜けに明るい人柄で人を惹きつける上原さんと、当HP編集長・二宮清純が、パラスポーツとその未来について語り合う。

 

二宮清純: 上原さんの下肢の障害は、二分脊椎症によるものだと聞きました。それは生まれてすぐに分かったのでしょうか。

上原大祐: はい。出産の際に担当医が適切な処置をしてくれたので、障害は下肢のみでした。この二分脊椎症による障害は、100人いれば100通りがあるともいわれます。走れる人もいれば寝たきりの人もいるし、内臓疾患や知的障害を伴うケースもあり、まちまちなんです。

 

二宮: それでも小中学校や高校は普通学級に通われたそうですが、車いすでの通学は大変だったのでは?

上原: 小学校のころは友達と一緒に登下校できるのですが、中学校になると皆、自転車で通学するんです。そうすると、車いすのスピードでは追い付けないので、友達の自転車につかまって引っ張ってもらいました。そのうち高校になると、今度はバイクに乗る人が増えて、そこでもつかまって引っ張ってもらいました。

 

二宮: 普通の車いすですよね!? それは危ないでしょう。

上原: もちろん、ゆっくり走ってもらいますが、急いでいてスピードを出すと車いすがガタガタ揺れて、よく前輪がもげていました(笑)。

 

二宮: 当たり前ですよ(笑)。それでパラアイスホッケーとの出会いは?

上原; 車いすの修理などを頼んでいた店の店長の紹介です。「お前ほど車いすを壊すやつは見たことがない」と言われ、そのやんちゃぶりがホッケーに向いているからということで誘われました。

 

二宮 いくつぐらいの時ですか。

上原 19歳の時ですね。練習の見学に行ったら面白そうだったので始めました。

 

二宮: それまでスポーツの経験は?

上原: 車いすバスケットボールを少しやりましたが、あまりパッとしませんでした。むしろ、ずっと音楽が好きで、小学校からピアノ、中学からトランペット、高校からギター、大学2年まではオーケストラでトランペットを吹いていました。

 

二宮: パラアイスホッケーについて知らない読者もいると思うので、簡単に説明をお願いします。

上原: パラアイスホッケーは、選手が「スレッジ」と呼ばれる専用のソリに乗ってプレーする競技です。アイスピックが付いたグリップエンドで氷を押してソリを漕ぎ、両手を巧みに使って短いスティックでパックをパスしたり、シュートしたりします。一般のアイスホッケーと比べて一部ルールが違いますが、同じアイスリンクを使い、ゴールやパックの大きさも同じです。

 

二宮: アイスホッケーは「氷上の格闘技」と形容されますが、パラアイスホッケーもすごく激しいスポーツですよね。ぶつかり合った時の衝撃は、相当なものでしょう。

上原: そうですね。ホッケーを始めてしばらくの間は毎試合、脳震とうを起こしていました。

 

二宮: ヘルメットをかぶっていても、大変な衝撃があるんですね。

上原: 私は背が低いので、相手がぶつかってきた時に、相手の肘がちょうど顎にぶつかるんです。格闘技で顎を殴られると脳が揺れてダウンするじゃないですか。ああいう感じです。

 

二宮: ダメージコントロールは、どのようにやるんですか。

上原: ホッケーを始めて2年ほどたったころから、よけられるようになったり、フェイントを仕掛けたりできるようになりました。相手と壁の間に挟まれると厳しくなるので、壁際でうまくフェイントを入れ、逆に相手が壁にぶつかるようなテクニックを身に付けたんです。それからは、壁際のプレーも楽しめるようになりました。

 

二宮: まさに「壁際の魔術師」ですね。それにしても、アイスホッケーをプレーする選手は屈強な人が多いですよね。ある種、格闘家のような……。

上原: あるあるですね(笑)。実際、日本ではほとんどいませんが、アメリカの選手の中には元兵士の人が結構いるんです。私たちとはタフさが比べものになりません。だから、アメリカは本当に強い。

 

二宮: 戦争で負傷した元兵士などでしょうか。

上原: そうです。私がアメリカにホッケー留学した時も、元兵士で結成したクラブチームがありました。ユニフォームはもちろん迷彩服。命がけで戦ってきた選手たちなので、脳震とうはおろか、骨折すら恐れないといった感じです。もともと体を鍛えているので、肉体的な強さも半端じゃありませんでした。

 

(詳しいインタビューは3月1日発売の『第三文明』2022年4月号をぜひご覧ください)

 

上原大祐(うえはら・だいすけ)プロフィール>

1981年12月27日、長野県軽井沢町出身。長野大学社会福祉学部卒業。生まれつき二分脊椎症という障害を抱えながらも、小中高と普通学級で過ごす。19歳の時にパラアイスホッケー(旧アイススレッジホッケー)に出合い、トリノパラリンピック(2006年)、バンクーバーパラリンピック(10年)に出場し、バンクーバーでは銀メダルの獲得に貢献。14年に引退したが、17年に現役復帰し、平昌パラリンピック(18年)に出場した。現在は、14年に設立した特定非営利活動法人D-SHiPS32の船団長(理事長)として、障害のある子どものサポートやパラスポーツの普及に尽力している。


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