西田優大(シーホース三河/徳島県海部郡海陽町出身)第2回「庭のバスケゴールが原点」
「シュートが決まる音が好きというより、シュートが決まる時が好き。打つこと自体も好きですね」
B.LEAGUEシーホース三河の西田優大にシューターとしてのこだわりを聞くと、返ってきた答えである。今回は彼の原点に迫りたいと思う。
1999年3月13日生まれの西田は、徳島県南部に位置する海部群海陽町で育った。本人曰く「家の周りを見渡せば360度田んぼがありました」という長閑な風景が広がる。山、川、海。大自然に囲まれ、すくすくと成長していった。
小学1年から水泳と少林寺拳法を習っていたが、3年になるとバスケットボールを始めた。元々、バスケに親しむ環境はあった。父・公人が徳島県社会人リーグの海部パイレーツに所属していたからだ。
「小さい頃から親父の試合について行き、ミニバスを始める前からバスケには触れていました。だからバスケ以外をやることは考えていなかった」
ちなみに3学年下の公陽、4学年下の陽成と弟2人も、西田と同じ道を辿り、現在は東海大学バスケットボール部に所属している。父・公人によれば、3兄弟のキャラクターは以下のように分かれるという。
「優大はマイペース。公陽は真面目。陽成は上2人を見ながら要領良くやっている」
マイペースな長男は、牟岐ミニバスケットボールに入団した。隣町の牟岐のチームにわざわざ入ったのは、西田の住む海陽町にはミニバスチームがなかったためだ。またチームの監督は父・公人の海部パイレーツの先輩という縁もあった。
「ミニバス時代はあまりポジションを気にせずプレーしていましたが、外からのシュートは好きでよく打っていましたね」。西田の現在のプレースタイルは、この頃から形成されていたのかもしれない。
「ただバスケが上手くなりたかった」
ポジションはPFで、プレーヤーとしてのタイプも西田と異なる父・公人は、長男のプレーをどう感じていたのか。
「センスはあると感じていました。小学3年生の時から7号球を使い、大人のリングの高さでシュート練習をしていた。そのフォームが既にかたちになっていた。当時からシュートを打つのが大好きな子でしたね」
家の庭に設置されたバスケゴールが西田の原点だ。そこでシュート練習することが日課だった。「家のリングでシュートを10本連続で決めてからミニバスの練習に行っていました」と本人。父・公人は当時をこう述懐する。
「負けず嫌いなところもあり、10本連続で入らず泣きながらシュート打っている時もありました。私が“もういいぞ”と言っても、絶対にやめなかったですね」
小学生時代は、庭で父との1on1をすることもあった。身長180cmの父・公人は高い壁となったが、インサイドの選手の対応を身体で学ぶことができた。2人の直接対決は小学生までだったが、父・公人によれば「小学6年時までは私が勝っていましたが、中学校に行く頃には優大の方が全然上でしたね」という。
順調に成長を遂げていった西田。牟岐ミニバスではチームを全国大会に導くことはできなかった。海陽中学に進んでからも点取り屋として鳴らしたが、2年時の四国3位が最高で全国の舞台には辿り着けなかった。
高校は親元を離れ、福岡大学付属大濠に進む。同校はSF金丸晃輔(現・島根スサノオマジック)、PG/SG橋本竜馬(現・レバンガ北海道)ら日本代表経験者を輩出した全国レベルの強豪だ。
当然、毎年全国レベルの中学生が入学してくる。西田がこれまで到達できなかった全国の舞台を踏める可能性はグッと高くなる。だが、彼が福岡大大濠を選んだのはもっとシンプルな理由だ。「ただバスケが上手くなりたかった」。競技に対する純粋な欲求が西田を突き動かしていた。
(第3回につづく)
<西田優大(にしだ・ゆうだい)プロフィール>
1999年3月13日、徳島県海部郡海陽町市出身。小学3年でミニバスチームに所属し、本格的にバスケットボールを始める。海陽中学、福岡大学附属大濠高校を経て、東海大学に進学した。東海大在学中の2019-20シーズンは名古屋ダイヤモンドドルフィンズに特別指定選手として加入。大学卒業前の2020年12月には新潟アルビレックスBBとプロ契約を結んだ。2021-22シーズンよりシーホース三河に移籍。日本代表としては2017年に候補強化合宿メンバーに選ばれて以降、コンスタントに招集されている。2021年東京オリンピック代表候補には選出されたものの、本大会出場はならなかった。スリーポイントシュートとディフェンスを得意とするSG。身長190cm、体重90kg。背番号は19。
(文/杉浦泰介、写真/© SeaHorses MIKAWA co.,LTD)