カープ球団は2年目のシーズンを前に、やっていけるのだろうかという、経営陣の不安があった。しかし、広島県内の各地に出掛ければ、ファンは大喜び。試合後には、選手らを歓待し、普段、選手寮ではなかなかありつけない肉がたらふく入ったスキヤキでもてなしを受けた。「さあ、食え」「まだ食え」といわんばかりに、大宴会が催されたのだ。原爆に侵された広島の地にある娯楽といえばカープを応援することだけだったのだろう。わが郷土に生まれたカープは、こうした県民らによって、育まれていくのだ。

 

 カープの選手たちは、地元の人々からの支援により胃袋が満たされることを活力にしながら、じっと耐え、広島総合球場でのキャンプ練習を続ける日々であった。球団経営の行く末を案じながらも、開幕できることを願い、ひたすら練習に明け暮れていたのだ。

 

初の警察沙汰か!?

 こうした日々の中で、昭和26年2月20日、驚きの出来事があった。一台のパトカーが、広島総合球場にやってきたのだ。

 戦後しばらくの広島には、物々しく物騒な事件が多かった頃のことだ。周囲の人らは驚き、ざわつきはじめるのであった。

 

(『広島カープ物語』トーク出版・作画momonga)

<「すわ捕物か」とスタンドにいた千人近い観客は騒然となったが、どうも様子が違う>(『カープ50年―夢を追って―』中国新聞社)

 いったい何があったのか、制服姿の警官が数人駆けつけたのだ。“さて、何ごとか”とキャンプ練習を楽しむファンらを驚かせた。実はこの日の練習中に、<広島市警察内で集めた激励金を届けに来た>(同前)だけだった。

 

 ホッと胸をなで下ろすファンらである。長いカープ史の中で、警官出動の第一号は、なんと警官らが職場で集めたお金が届けられたのだ。球場の雰囲気を騒然とさせるほどの驚きがあったせいか、反響も大きく、大々的にマスコミに取り上げられ、カープの窮状も広く伝わっていくのである。

 

「カープはお金に困っているじゃげなー」

「うすうすは知っておったが、選手の給料も払えんらしい」

「じゃったら、なんとかせにゃーいけまーが」

 

 こうした会話が町中いたるところで、交わされるのである。中国山脈を背に南側に、太田川沿いに開けた三角デルタの町とあって、げなげな話は一瞬のうちに伝わっていくのだ。

 

 中国新聞では、「カープへ援助資金ぞくぞく」という見出しで、多くの職場から資金が届けられた。記事には、金額の後に、企業名や職場の名前がしっかりと記されている。

<【二千円】花岡旅館、広島石油、東医院、芸北木材、中国石炭、藤田金物店、高橋写真機、広島食糧事務所、日本自動車、中国印刷(一部略)>(「中国新聞」昭和26年3月4日)

 

 旅館に始まり、石油販売、医院に、石炭販売、金物店など、あらゆる業種が支援金を寄せている。さらに、職場で活動している野球部にあってはこうだ。

<広島市役所野球部も、全庁員が薄給の中から五十円、百円と浄財を出し合い、三日拠金総計が七千円に達したので、同日、国安野球部長から本社に寄託された>(同前)

 

 こうして野球部から中国新聞社に寄せられる寄付金が始まると、さらに他の野球部も負けじと動き出していた。

<広銀本店野球同好会は全行員にゲキを飛ばしてカープ強化資金を募集、三日第一次分として七千円を本社に寄託した>(同前)

“カープをなんとかせねば”の思いは、おまわりさんが加速させ、企業や次々に広がり、動き始めるのであった。

 

 こうした朗報は、監督の石本秀一らにも当然ながら届いていたのか、さっそく紅白戦でのファンサービスをせねばなるまいと思案をするのである。また、援助資金の記事が掲載された当日3月4日の紅白戦(広島総合球場)での観客の出足を早めるのであった。

<ファンは早朝からぞくぞくとつめかけてその数ザッと二万、力強いカープ熱のほどをみせた」(同、昭和26年3月5日)

 

驚きのファンサービス

 さあ、今か今かと試合を待つファン。

 そこであろうことか、石本が、アトラクションと銘打って、歌を披露するではないか。

 

 中国新聞の記事を元に、筆者が当日のアトラクションの演出を描き出すとする。

「みなさん、お待たせしました。まずトップバッターは、石本監督に歌ってもらいましょう。石本監督どうぞ」。観客は手拍子歌拍子で、はやしたてて、ヤンヤ、ヤンヤの大喝采――。石本の野球指導の信念でもある「自ら範を示す」ことをファンサービスでも、実践してみせた。“ファンサービスとはこうやるのだぞ”とばかり、スタンドのファンはおろか、選手らも驚かせた。現代のプロ野球でいうならば、北海道日本ハム監督のBIGBOSSこと新庄剛志であっても称賛すること間違いない演出だったろう。こうした石本の姿に魅せられてか、続いては、投手と野手の二刀流で活躍する武智修による『小判鮫(の唄)』が披露された。

 

〽かけた情けが いつわりなら

 なんで濡れよか 男の胸が

 

前年まで、投手不足に悩まされたカープの中で、登板のない日には、内野手で活躍する名物男、武智の美声にファンは拍手喝采であった。この後、田所重蔵が、『浪花節』で続くと、あろうことか、普段から表情を崩さず、とり乱すことのない男、選手兼助監督の白石勝巳が、『会津磐梯山』を披露するではないか。

 

 これには、球場のボルテージは一気に沸きあがった。

 この様子を中国新聞ではこう伝えている。

<むっつり右門の白石助監督が、珍しくも“会津磐梯山”を披露におよび和気あいあいたる交歓風景をかもしだした>(「中国新聞」昭和26年3月5日)

 

 試合開始前のひとときを、観客2万人は大喜びで過ごしたのだ。プロ野球セ・パ分裂の初期から、石本のファンサービスへの意識の高さが現れた一場面であったろう。その後の紅白戦での盛り上がりにも好影響があったのだろう。試合は1対1の手に汗握る緊迫した展開となり、延長13回まで続き、白軍が最後に1点をとって勝利した。両軍ともに8安打であったが、ファンにしてみれば、長時間にわたり、選手の投げる、打つの一投一打に目をそらすことなく満たされた一日となった。

 

ないないづくしのオープン戦

 カープの開幕前は、遠征費も乏しく、他チームとのオープン戦がほぼ組めなかった中で、唯一、行ったのが、3月11日、広島総合球場での毎日オリオンズ戦であった。オリオンズ先発は、ベテランともいえる佐藤平七で、迎えるは前年15勝をあげて、カープのエースに躍り出た長谷川良平である。佐藤は前年9勝をあげて、セ・パ分裂元年のパ・リーグ優勝に貢献した投手。佐藤の巧みなピッチングに完全に抑え込まれたカープ打線は零封をくらった。長谷川はオリオンズ打線を抑えたものの、3回表、ツーアウトから今久留主淳のヒットの後、長谷川の一塁けん制球で落球があり、その間、ランナーは二塁に到達した。ここで白川一にタイムリー二塁打を打たれた。カープはそのまま0対1で敗れたのだ。

 

 このオープン戦期間において、カープは広島に残り、3月13日、広島市のお隣、安芸郡府中町にある東洋工業グラウンドで、またもや紅白戦を行うのである。

 試合は白軍が投打に勝り、9点をあげて、紅軍を9対5で退け、矢野地区での紅白戦から3連勝を飾った。

 

 この紅白戦が催されたのも、午後4時30分からだ。ナイター設備のない広島において、仕事終わりの東洋工業従業員の入場を見込んだ苦肉の興行でもあったろう。この日も、東洋工業の野球部員が会社を代表して、資金が寄せられた。

<東洋工業従業員からのカープ援助資金二万九千七百円が試合前、同社野球部長から、石本監督に手渡された>(「中国新聞」(昭和26年3月14日)

 

 いうまでもないが、東洋工業野球部は、プロ野球ではない。また、先に記した広島市役所野球部をはじめ、広島銀行野球部までも、全て会社所属のチームであった。そのアマチュアチームが、プロ野球のカープに資金カンパを募り、寄付をするという、他のプロ球団では考えられないことであるが、そうこうもしながら、郷土広島に誕生したプロ球団をなんとか、存続させ根付かせていきたい一心で行動したのだ。

 

 巨人に目を向けてみると、この日南海とのオープン戦を組んでおり、首都圏、関西圏を遠征で移動しながらの試合を行っている。というのも、この時期は、特に大事な時期でもあった。プロ野球セ・パ分裂当初には、開幕前の春の野球祭と銘打ったトーナメント大会が行われ、春の風物詩にもなっていたのだ。昭和26年は3月16日から、阪神甲子園球場で行われるとあって、本番ムードが高まってきており、各チーム仕上がりを確かめるようにオープン戦に躍起になっていた。

 

 しかし、カープの実戦はというと紅白戦が多かった。唯一、遠征ついでの毎日オリオンズとのオープン戦を、地元広島で開催したが、やはりカープが遠征に出向くことはなかった。

 

 カープには遠征費がなかったのだ。

 大阪までのトーナメント大会に対しても同様で、遠征費がない。ないならないで、親会社から捻出されるはずであるが、カープには親会社がなかった。しかし、春の野球祭は、セ・パ両チームが集結するとあって、どうしても遠征費だけは必要不可欠のものになる。そこで球団の出資元である広島県庁に出向いて、懇願するのである。

 

 さあ、カープの遠征費はどうなるのか。窮地に追い込まれた、迷える選手らの中には、甲子園まで歩いていくぞとばかり意気込むが、果たして、その行く末はいかに――。

 次回のカープの考古学では連載第50回目を記念して、存続の危機に瀕するカープがいかに窮地を脱するのか、ワイド版でお届けする。ファンは必読、ご期待あれ。

 

【参考文献】『カープ50年―夢を追って―』(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和26年3月4日、5日、12日、14日)

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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