野本尚裕(空手・新極真会/愛媛県松山市出身) 第2回 「サッカー少年から空手の道へ」

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 愛媛県松山市内で野本は生まれ育った。小学生の頃は、映画や2歳年上の兄の影響で、ブルース・リーやジャッキー・チェンに憧れていた。
「よくマネをして遊んでいました(笑)。2歳年上の兄貴と喧嘩するといつもかなわなくて、強くなりたい、という気持ちも強かったですね」


 中学、高校時代は、サッカー少年だった。
「自分が子どものころは、サッカーよりも野球の方がメジャーだったので、最初は野球がやりたかったんです」
 そう野本は振り返る。だが、中学入学後、同級生に誘われたことがきっかけで、あっさりとサッカー部へ入部。ポジションはフォワード、ディフェンス、ゴールキーパーと「ほとんど、全部やりました(笑)」。
 高校は松山工業高へ進学。当時、愛媛県内では、数々のJリーガーを輩出している南宇和高が圧倒的に強かったが、野本が在籍中、松山工高は県大会で準優勝したこともあるという。野本もレギュラーとして活躍した。

 高校卒業後は、ゴルフ場を建設する会社に就職した。この頃から、子供の頃に抱いていた「強さへの憧れ」が、野本の中で再燃していた。
 就職先は、現場を転々とする移動の多い仕事だった。1カ月以内には、次の現場へ移動するのは珍しくなかった。大阪支社、神奈川本社に勤めたことがある。
 そんな時、徳島で少し長い期間の現場にあたった。たまたま、仕事で顔を合わせていた同僚が、大学時代に空手を経験していたということで、野本も空手道場の門を叩いた。20歳の時だった。

 野本は振り返って言う。
「当時は、家と現場の往復という毎日だった。そういう変化のない生活から抜け出したい、という思いが強かった。仕事は好きでしたけど、それまで、自分に自信が持てるものがなかったんです」
 新極真会(当時・極真空手)を選んだのは、「全国どこにでも道場がある」という理由もあった。出張が多い野本の仕事にとって、出向いた先々で、道着さえ着れば愛媛と同じように稽古できるのは、大きかった。
 自分が打ち込めるものであれば、空手でなくてもよかったかもしれない、と野本は言う。だが、「真剣勝負を通して、お互いを認め合える」という空手の魅力にどっぷりはまっていった。

 腰を据えて空手に取り組みたい

 空手を始めてしばらくは、仕事の片手間に練習すると程度、いわゆる趣味の一環でしかなかった。
 だが、月日を経て真剣に打ちこむにつれ、野本にとって空手が「自分の生活の中になくてはならないもの」になっていった。
 野本は当時を振り返って語る。
「空手の練習をやり込めているときは、すごく充実感がありました。現場を転々とする仕事なので、あまり練習できない時期も多かった。そういうときは、自分、短気になるんです(笑)。練習できない環境は、自分らしくないな、と……。それで腰を据えて、じっくり空手をやりたい、との思いが強くなった」
 30歳を目前に、野本は、地元・愛媛の水道工事の仕事に転職を決め、四国を拠点とする三好一男師範の元、空手家として新たなスタートを切った。

(続く)

野本尚裕(のもと・なおひろ)プロフィール
1970年1月29日、愛媛県出身。02年第19回全日本ウエイト制重量級優勝。03年第8回全世界空手道選手権大会ベスト16。04年第36回全日本大会準優勝。06 年第23回全日本ウエイト制空手道選手権大会重量級準優勝。同年第9回オープントーナメント全世界空手道選手権大会で4位に入り、07年第9回全世界空手道選手権大会の日本代表に名を連ねた。得意技は下段回し蹴り。175センチ、91キロ。弐段。




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