小池真理子(TOKYO DIME/愛媛県伊方町出身)第4回「シューター転向で掴んだ日の丸」

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 2006年春、鹿屋体育大学入学前の小池真理子(現TOKYO DIME)は、女子バスケットボール部監督の清水信行から、こう告げられた。

「スリーポイントシュートを毎日500本打てば、日本代表になれるぞ」

 言われた本人は半信半疑だった。それもそのはず。小池は小中高と所属チームで全国大会出場経験もなければ、アンダーカテゴリーの日本代表に選ばれたこともなかったからだ。

 

 彼女の主戦場はインサイドからアウトサイドへ。元々、外からのシュートは得意にしていた。それにインサイドで身体をぶつけ合うことの方が苦手だった。シューター転向はうまくはまり、小池は1年時から出場機会を得た。だがシュート以外のプレーはうまくいかず、監督や先輩たちから怒られることも多かった。小池は「“なんで私を試合で使うんだろう”と思っていました」と自信を持てずにいた。

 

 それだけ清水が寄せる期待は大きかったのだろう。小池がシュート練習を怠っていると気付けば、カミナリを落とした。しばらくして小池は、体育館でのスリー練習が日課となった。外からのシュート以外にもゴール下での得点パターンを広げるため、ポストに入ってからのバックシュートを習得した。スリーポイントとバックシュート。3×3(3人制バスケ)でプレーする現在も小池の武器となっているスキルは、鹿屋体育大時代に磨かれたものだ。

 

 体育館で何万本と打ち込んだシュート練習。その努力は彼女を裏切らなかった。2年時にユニバーシアード日本代表の候補に選ばれた。タイのバンコクで行われた大会の最終メンバーからは漏れたが、「日本代表」が手の届くところまで近付いたことは、少なからず自信になったはずだ。大学3年時には西日本学生で得点王を獲得。そして大学4年の夏、晴れてセルビア・ベオグラードでのユニバーシアード日本代表に選出されたのだ。

「大学入学前に言ってもらった『日本代表になれるぞ』という言葉がなければ、代表にはなれていなかった」

 

 個人としては実りのある4年間だったものの、チーム単位では結果を残せなかった。全日本インカレ成績はベスト8が最高。特に4年時は右ヒザの後十字靭帯断裂のケガもあって不本意なシーズンとなった。全日本総合選手権大会(オールジャパン)の出場枠が懸かる全九州総合選手権では高校生相手に敗れるという屈辱を味わった。その後の全日本インカレは4年間で最低のベスト16。学生生活の有終の美を飾ることはできなかった。

 

 死をも覚悟した出来事

 

 入学前はおぼろげながら、教師の道を目指していた。大学で教員免許を取得したが、就職先はトヨタ自動車だった。バスケットボールプレーヤーとして日本女子バスケ最高峰のWリーグでプレーすることを決めたのだ。OGが所属していたこともあり、鹿屋体育大は夏にトヨタ自動車の練習場で夏合宿を行っていた。その縁もあって、当時のヘッドコーチ(HC)丁海鎰(チョン・ヘイル)からは「オマエは卒業したらトヨタに来い」と声を掛けられていた。早くから評価してくれていたこともあり、トヨタのバスケチームであるアンテロープス入団を決めた。

 

 厳しいと知られていたトヨタの練習は、小池の予想以上のものだった。「練習の質も量も学生時代とは違い、ついていくのに必死でした」。生活がバスケ一色となり、身体への負担も格段に増した。入社から数カ月後、右足の疲労骨折が判明した。診断は全治3カ月。「手術をしなければ早く復帰できたとしても再発のリスクがありました。それならば1年目を棒に振るかもしれないけど、ケガの不安をなくすことを優先しました」。小池は今後を見据え、手術を選択した。

 

 リハビリを経て、開幕直前に復帰。1年目のシーズンは9試合に出場した。レギュラーシーズン2位でプレーオフに進出したトヨタ自動車はJXサンフラワーズ(現・ENEOSサンフラワーズ)とのファイナルまでコマを進めた。セミファイナルでは出番のなかった小池だが、第1試合で途中出場。チームは試合に敗れたものの、小池は2本のスリーを決めるなど、6得点を挙げた。“次戦以降もチャンスをもらえるかもしれない”と手応えを掴んだ試合だった。

 

 第1試合の千葉・船橋アリーナから場所を移し、第2戦は福島・郡山市総合体育館で行われる予定だった。試合前日、サブコートでの練習中、ストレッチをしていた小池は揺れを感じた。他の選手が避難する中、彼女はすぐにおさまると思い、慌てなかったことで逃げ遅れた。揺れが段々大きくなり、頭には割れた窓ガラスの破片が降ってきた。ベンチコートを着て、フードを被った。近くにあったリュックを頭に乗せて守ろうとした。当時を振り返り、小池は「死を覚悟した」という。

 

 2011年3月11日の出来事だった。長く大きな揺れがおさまり、小池はドア付近にいたコンディショニングコーチと共に体育館から脱け出した。頭を負傷していた小池は病院に向かい、応急処置を受けて宿泊先に戻った。翌日のプレーオフファイナル第2戦は当然中止。そのまま第2戦は行わず、優勝はJXに決まった。名古屋に帰ってから、自らが生かされた意味を考えるようになった。このままバスケを続けるべきか、悩んだこともあったが「バスケ選手である以上、バスケで人を元気するのが役目」との思いで、再びバスケプレーヤーの道を歩き出したのだった。

 

 心が折れた3年目

 

 1年目はケガから復帰し、リーグ戦9試合に出場できたことで“次に繋がるシーズン”と思うことができた。2年目はレギュラーシーズン26試合(スタメン10試合)に出場。プレータイムを確実に伸ばしている。順調なキャリアを重ねているように映るが、本人の感覚は違うという。

「スターターでも起用してもらっていましたが、シックスマンには私と同じポジションの選手が控えていた。“ここで結果を残さないと次はない”という危機感が常にありました」

 

 小池はトヨタ2年目終了時を振り返り、「正直、メンタルはボロボロでした」と語る。来季への希望を持った1年目とは違い、心が摩耗した2年目だった。そして迎えた3年目は、非運のシーズンとなったのだ。

 

 小池を評価していた丁が日本代表のHCに就任。指揮官が変わった。小池と同じ3番(スモールフォワード)のレギュラーはルーキーの栗原三佳(現・藤髙三佳)が手にする。のちにオリンピック代表(2016年リオデジャネイロ五輪)にも選出されるシューターだ。2学年下の後輩はレギュラーシーズン全22試合でスターターとして起用された。一方の小池は5試合の途中出場にとどまった。

 

 シーズンが始まる前に先天性の心臓疾患の手術を行った。高校、大学時代から時折、急に心拍数が上がる自覚症状はあった。それまでは検査しても原因が分からなかった。トヨタ3年目で症状が悪化した際に検査した結果、発作性上室性頻拍症と診断された。幸い、手術を受ければ長期離脱とはならないと分かった。手術は成功し、開幕には間に合ったものの、ルーキーに譲ったレギュラーの座を奪うことはできなかった。

 

 秋には胸鎖関節の亜脱臼で約2カ月離脱。年明けのオールジャパンは出場のチャンスが巡ってきたが、試合前日の練習で重い捻挫。このシーズンの復帰は難しい。足の骨は折れずとも心はポキッと折れた。オールジャパン決勝で勝利し、トヨタは初優勝した。小池はベンチで栗原が大活躍する姿を目にした。

「第1ピリオドだけでスリーを4本決めた。ポジションだけでなく身長も体重ほぼ一緒。“この子には勝てない”。清々しいくらいでした」

 

 シーズン終了後、小池はある決断を下す――。トヨタ自動車の部長との面談で、このシーズン限りでの退部、そして引退を決めた。慰留も受けたが、彼女の決心は固かった。伊方小ミニバスに始まり、八幡浜高、鹿屋体育大、トヨタでの計13年間、伊方中バレーボール部時代を含めた計16年間のスポーツ人生に終止符を打ったのだった。

 

(最終回につづく)

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小池真理子(こいけ・まりこ)プロフィール>

1987年7月23日、愛媛県西宇和郡伊方町生まれ。小学4年でミニバスケを始める。中学ではバレーボール部に所属。八幡浜高校でバスケットボール部に入った。国民体育大会の愛媛県代表に選ばれ、ベスト8進出に貢献する。鹿屋体育大進学後、1年時から出場機会に恵まれる。4年時にはユニバーシアード日本代表にも選出された。卒業後はトヨタ自動車アンテロープスに入団し、Wリーグで3シーズンプレーした。現役引退後、約5年のブランクを経て3×3に転向。2018年、SHIBUYA SANKAKに加入し、翌年よりTOKYO DIMEに移籍。21年には3×3.EXE PREMIER2021でMVPにも輝いた。今シーズンよりキャプテンを務める。中からも外からもシュートを決められる万能型スコアラー。ポジションはPF、C。身長178cm。背番号71。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、その他の写真/本人提供)

 

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