第7回 被災者に届け! 障害者アスリートの“諦めない姿”
東日本大震災から約1カ月半が経ちました。死者・行方不明者はあわせて2万5000人を超え、その被害の大きさは戦後最大と言われています。少しずつ復興への兆しを見せ始めてはいるものの、被災地が元の姿に戻るにはまだまだ時間がかかることでしょう。今回の震災では「自分には何ができるのか」「今、何をすべきなのか」を考えた方々も少なくなかったと思います。私自身もその一人でした。障害者スポーツに関わる人間として、何をすべきか……。その答えは3月29日に行なわれたサッカーのチャリティーマッチ「日本代表vs.Jリーグ選抜」にありました。「自分たちの最後まで諦めない姿を見てほしい」という選手のコメントを耳にした時に、「これだ!」と思ったのです。多くの困難を乗り越え、逆境を糧にさえして生きてきた障害者アスリートそのものが、最後まで諦めない姿の象徴です。そうであるならば、彼らと触れ合うことで、被災者の方々に何かを伝えられるのではないか。私はそう信じ、多くの方々のご協力のもと、障害者アスリートとともに今月23日、宮城県石巻市に訪問・炊き出しに行ってきました。
(写真:パラリンピアンが宮城・石巻へ訪問・炊き出しに訪れた)
今回訪れたのは、石巻中学校と、同じ敷地内にある門脇中学校でした。体育館や教室には合わせて約1000人もの被災者が避難生活をしています。集まったのは新田佳浩、太田渉子、三澤拓、神谷千恵子、永野明、齋藤陽道の6名の障害者アスリートに加え、プロ野球OBの川崎憲次郎さんと阿波野秀幸さん。そして、この主旨に賛同し、炊き出しの全てを引き受けてくれた「MLBカフェ」(渋谷区恵比寿)からは兵頭慶爾社長をはじめ、大勢のスタッフが駆けつけてくれ、「みらい研」の高松重雄さんが現地との調整の労をとってくださいました。1800食分の食材や調理機器とともに、23日午前2時に東京を出発。何度か休憩をはさみながら、目的地の石巻に到着したのは午前8時を過ぎていました。空はあいにくの雨模様。テント設営が危ぶまれるほど、冷たい風が吹き荒れていました。
障害よりも被災者優先
「MLBカフェ」のスタッフを中心とした炊き出しチームが準備を行なっている間、私は選手たちと一緒に、避難所となっている体育館へと向かいました。簡単な紹介を終え、選手たちが一人ひとりに激励の言葉をかけていきます。最初は緊張感が漂っていましたが、徐々に明るい笑い声とともに和やかな雰囲気に包まれていくのがわかりました。新田、太田、神谷選手が持ってきたパラリンピックのメダルを嬉しそうに首にかける人もいれば、選手たちに自ら駆け寄ってきて、サインや写真を求めたりする人もいました。
もちろん、こうした選手たちの訪問をよく思っていない人もいたことでしょう。実際、選手たちに背中を向けるようにして寝ている人たちは少なくありませんでした。しかし、私はやはり彼らが被災地に行ったことは意味のあることだったと考えています。それを最も実感したのが被災者の次のような言葉でした。
「パラリンピックの選手たちの言葉は、自分たちがいろいろと大変な思いをしてきているからこその説得力がある。これまではいくら『頑張って』って言われても、『こんな状況で、どう頑張ればいいの?』って思ってたんです。でも、彼らと話をしていて、『自分も負けられないな』って。『よし、頑張ろう』って思えました。今はまだ体育館での生活だけど、来年のロンドンパラリンピックは、家のテレビで観て応援したい」
(写真:優しく話かける神谷選手)
この言葉を聞いた時、心の底から今回の訪問を計画してよかったなと思いました。一人でもいい。選手たちから何かを感じ、月並みな言葉だけれど、元気や勇気を伝えることができたのであれば……。私がそう思ったのには理由がありました。実は、出発前にこんなことがあったのです。今回参加した神谷選手はヒザと足首に障害があるために、トイレは洋式しか使うことができません。しかし、避難所は中学校の体育館。洋式がある可能性は低いと思われました。そのため、最初は炊き出しに行くことを迷っていたのです。ところが、数日後、神谷選手から炊き出しに参加するとの電話がかかってきました。「今、被災地の人たちがどんな思いでいるのかと思ったら、何て自分は小さなことを言っていたんだろうって思ったんです。本当に恥ずかしい限りです。洋式のトイレがなくても構わないので、一緒に連れて行ってください」と。神谷選手にとって、洋式のトイレがあるか否かは、決して小さい問題ではなかったはずです。それでも、「何かをしたい」という気持ちが勝ったのです。
“無理”“背伸び”が復興へ
「不可能とは可能性だ」
これは新田選手の座右の銘で、いつも色紙に書く言葉です。今回の訪問でも、被災者へのメッセージとして書き込んでいました。新田選手はこんなことを言っています。
「『背伸びをしないで自分のやれることをやる』という人もいるけれど、大きなことをやり遂げるには、僕は背伸びをしなければいけないと思うんです」
実は私も同じことを考えていました。よく「できる限りのことをします」「自分のやれる範囲でお手伝いします」という言葉を耳にしますが、私はあまり好きではありません。もちろん、言った本人としては、「一生懸命にやる」という意味で使っているのだと思います。しかし、なんだかやる前から自分で限界をつくってしまっているように聞こえるのです。
(写真:被災者との和やかなムードに新田選手<左>と太田選手からも笑顔がこぼれた)
特に今回の震災では「できることを考える」という言葉は、震災の3日後には使わないようにしていました。「考える」だけで終わるのではなく、とにかく実行するのみと思ったからです。誰もが予想することができなかったほど甚大な被害を受けた被災地が復興するには、少々の無理は必然でしょう。「できる限り」では、復興への兆しはいつまでたっても見えてきません。だからこそ、選手たちは自身に障害がありながらも、多少の無理を承知で今回の参加を決意したのではないでしょうか。そしてその気持ちが被災者に届いたからこそ、先の言葉が聞こえてきたのだと思います。
(写真:被災者に温かい炊きこみご飯を配る三澤選手<左>と永野選手)
現地を訪れ、被災者の生の声を聞き、被災地の状況を間近で見た選手たちは、様々な思いを抱きながら帰ってきたことでしょう。特に津波に町全体が大きな被害を受けた女川町の状態は、あまりにも凄まじく、言葉に言い表すことはできませんでした。そこに人々が生活をしていたことが想像できないほど悲惨な姿に、誰もが思わず息をのんでしまったことでしょう。
今回のことで障害者アスリートだからこそできることがあるということが明確になりました。この貴重な体験をした選手たちが先頭に立って、障害者スポーツ界に支援の輪がさらに広がることを願ってやみません。
最後になりましたが、このたびの震災につきまして、お亡くなりになられた方々へのご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
<伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND副代表理事。1991年に車椅子陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。
(写真:パラリンピアンが宮城・石巻へ訪問・炊き出しに訪れた)
今回訪れたのは、石巻中学校と、同じ敷地内にある門脇中学校でした。体育館や教室には合わせて約1000人もの被災者が避難生活をしています。集まったのは新田佳浩、太田渉子、三澤拓、神谷千恵子、永野明、齋藤陽道の6名の障害者アスリートに加え、プロ野球OBの川崎憲次郎さんと阿波野秀幸さん。そして、この主旨に賛同し、炊き出しの全てを引き受けてくれた「MLBカフェ」(渋谷区恵比寿)からは兵頭慶爾社長をはじめ、大勢のスタッフが駆けつけてくれ、「みらい研」の高松重雄さんが現地との調整の労をとってくださいました。1800食分の食材や調理機器とともに、23日午前2時に東京を出発。何度か休憩をはさみながら、目的地の石巻に到着したのは午前8時を過ぎていました。空はあいにくの雨模様。テント設営が危ぶまれるほど、冷たい風が吹き荒れていました。
障害よりも被災者優先
「MLBカフェ」のスタッフを中心とした炊き出しチームが準備を行なっている間、私は選手たちと一緒に、避難所となっている体育館へと向かいました。簡単な紹介を終え、選手たちが一人ひとりに激励の言葉をかけていきます。最初は緊張感が漂っていましたが、徐々に明るい笑い声とともに和やかな雰囲気に包まれていくのがわかりました。新田、太田、神谷選手が持ってきたパラリンピックのメダルを嬉しそうに首にかける人もいれば、選手たちに自ら駆け寄ってきて、サインや写真を求めたりする人もいました。
もちろん、こうした選手たちの訪問をよく思っていない人もいたことでしょう。実際、選手たちに背中を向けるようにして寝ている人たちは少なくありませんでした。しかし、私はやはり彼らが被災地に行ったことは意味のあることだったと考えています。それを最も実感したのが被災者の次のような言葉でした。
「パラリンピックの選手たちの言葉は、自分たちがいろいろと大変な思いをしてきているからこその説得力がある。これまではいくら『頑張って』って言われても、『こんな状況で、どう頑張ればいいの?』って思ってたんです。でも、彼らと話をしていて、『自分も負けられないな』って。『よし、頑張ろう』って思えました。今はまだ体育館での生活だけど、来年のロンドンパラリンピックは、家のテレビで観て応援したい」
(写真:優しく話かける神谷選手)
この言葉を聞いた時、心の底から今回の訪問を計画してよかったなと思いました。一人でもいい。選手たちから何かを感じ、月並みな言葉だけれど、元気や勇気を伝えることができたのであれば……。私がそう思ったのには理由がありました。実は、出発前にこんなことがあったのです。今回参加した神谷選手はヒザと足首に障害があるために、トイレは洋式しか使うことができません。しかし、避難所は中学校の体育館。洋式がある可能性は低いと思われました。そのため、最初は炊き出しに行くことを迷っていたのです。ところが、数日後、神谷選手から炊き出しに参加するとの電話がかかってきました。「今、被災地の人たちがどんな思いでいるのかと思ったら、何て自分は小さなことを言っていたんだろうって思ったんです。本当に恥ずかしい限りです。洋式のトイレがなくても構わないので、一緒に連れて行ってください」と。神谷選手にとって、洋式のトイレがあるか否かは、決して小さい問題ではなかったはずです。それでも、「何かをしたい」という気持ちが勝ったのです。
“無理”“背伸び”が復興へ
「不可能とは可能性だ」
これは新田選手の座右の銘で、いつも色紙に書く言葉です。今回の訪問でも、被災者へのメッセージとして書き込んでいました。新田選手はこんなことを言っています。
「『背伸びをしないで自分のやれることをやる』という人もいるけれど、大きなことをやり遂げるには、僕は背伸びをしなければいけないと思うんです」
実は私も同じことを考えていました。よく「できる限りのことをします」「自分のやれる範囲でお手伝いします」という言葉を耳にしますが、私はあまり好きではありません。もちろん、言った本人としては、「一生懸命にやる」という意味で使っているのだと思います。しかし、なんだかやる前から自分で限界をつくってしまっているように聞こえるのです。
(写真:被災者との和やかなムードに新田選手<左>と太田選手からも笑顔がこぼれた)
特に今回の震災では「できることを考える」という言葉は、震災の3日後には使わないようにしていました。「考える」だけで終わるのではなく、とにかく実行するのみと思ったからです。誰もが予想することができなかったほど甚大な被害を受けた被災地が復興するには、少々の無理は必然でしょう。「できる限り」では、復興への兆しはいつまでたっても見えてきません。だからこそ、選手たちは自身に障害がありながらも、多少の無理を承知で今回の参加を決意したのではないでしょうか。そしてその気持ちが被災者に届いたからこそ、先の言葉が聞こえてきたのだと思います。
(写真:被災者に温かい炊きこみご飯を配る三澤選手<左>と永野選手)
現地を訪れ、被災者の生の声を聞き、被災地の状況を間近で見た選手たちは、様々な思いを抱きながら帰ってきたことでしょう。特に津波に町全体が大きな被害を受けた女川町の状態は、あまりにも凄まじく、言葉に言い表すことはできませんでした。そこに人々が生活をしていたことが想像できないほど悲惨な姿に、誰もが思わず息をのんでしまったことでしょう。
今回のことで障害者アスリートだからこそできることがあるということが明確になりました。この貴重な体験をした選手たちが先頭に立って、障害者スポーツ界に支援の輪がさらに広がることを願ってやみません。
最後になりましたが、このたびの震災につきまして、お亡くなりになられた方々へのご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
<伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND副代表理事。1991年に車椅子陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。