母国での戦いながら気分はアウェーだった。
 2012年12月16日に行われた格闘技大会「GLADIATOR49」(ディファ有明)。プロ格闘家・松田干城は日本のリングに初めて立った。米国ボストンを拠点にしている26歳はここまで総合格闘技で10戦7勝(3KO)をあげ、米国のローカルタイトルながらバンタム級のチャンピオンベルトを持っている。しかし、日本では全くと言っていいほど、その名は知られていない。観客がどんな反応を示すのか、実際に登場してみなければ分からなかった。

 重圧やケガを乗り越えての凱旋KO

 しかし、松田の名前がリングアナから場内にコールされると、会場は大きな拍手に包まれた。家族や友人たちをはじめ、「干城の試合を観たい」と大勢の人たちが応援に詰めかけていたのだ。
「アメリカに渡って、タイやブラジルで修業をしたり、UFCファイターと交じって戦ったり、いろいろな経験を積んできました。でも、そういったプロセスが最終的には評価されるわけではない。プロである以上、最後は勝つか負けるか。結果を出さないとアメリカの生活は評価されないという強いプレッシャーを感じていました」

 加えて松田はケガも隠していた。試合まで1カ月を切った段階でトレーニング中にダッシュをした際、足に激痛が走った。診断結果はハムストリングの肉離れだった。これにより1週間、スパーリングを休まざるを得なかった。

 試合に向けた環境もアウェー同然だった。米国で活動してきた松田にとって、日本に帰ったからといって、いつでも練習できる施設があるわけではない。往復の飛行機や、トレーニングにかかる費用を考えれば、ファイトマネーでは足が出てしまう。故障にも重圧にも不十分な環境にも打ち克つ――。それは対戦相手のリ・ミョンファン(韓国)よりも大きな敵だった。

 そんな松田を支援すべく、今回の凱旋試合を実施するにあたって、ひとつのプロジェクトが動いていた。「第1弾UFCへの道」と題し、日本と米国の往復渡航費や国内でのトレーニング代のカンパをインターネットを通じて広く呼びかけたのだ。アスリートを応援する人が単に試合で声援を送るのみならず、お金を出し合って活動を支える。スポーツを通じたクラウドファウンディングである。

 目標金額は60万円。だが、支援の輪は予想以上に広がり、なんと試合当日のチケット購入分も含め、110万7000円が寄せられたのだ。
「自分自身でも、こんなにお金が集まって驚きました。リングに上がるのはひとりでも、チームで一丸となって戦っている感じになりました」
 松田は個人競技でありながら、チームスポーツのような感覚を覚えていた。支援してもらった人ひとりひとりの名前を日の丸に手書きし、それを羽織ってリングインした。

 試合は金網のケージ内で行われる5分2R制。立ち上がりの松田は、やはり緊張からか動きが固かった。相手との距離感がつかめず、パンチが思うように出ない。ローキックからリズムをつくろうとしたが、バランスを崩してマットに倒れるシーンもあった。
 
 しかし、徐々に体がほぐれていくと素早い動きで相手を上回り、グラウンドから韓国人を抑え込みにかかる。そして体勢を変えて馬乗り状態に。拳を何度も振りおろすと、相手は為す術がなかった。1R4分33秒。レフェリーが試合を止める。日本に戻ってきたファイターはKO勝ちで故郷に錦を飾った。

「パウンドで勝てたのはうれしかったです。ただ、途中で何度も転んでしまったのは反省材料。これがUFCのレベルなら、確実にやられているだろうし、もし、うまく逃げられたとしてもスタミナを消耗してしまう。試合で100%の力は出せないものですが、今後の練習への課題が見つかりました」

 偶然が重なって格闘技の道へ

 今ではプロ格闘家の肩書を持つ松田だが、もともとは野球少年だった。中学、高校は神奈川県の桐蔭学園。中学は軟式野球で全国制覇の経験もある。高校の硬式野球部は高橋由伸(巨人)らプロ選手を多く輩出し、春夏通じて11回の甲子園出場を誇る強豪だ。高校の3年間でほとんど試合には出られなかったが、公式戦や練習試合で成瀬善久(横浜高、現千葉ロッテ)、ダルビッシュ有(東北高、現レンジャーズ)らのボールを間近で見た。「ダルビッシュはひとつ下でしたが、全員、彼のスライダーに手も足も出ませんでした(笑)」と当時を振り返る。

 野球をする中で他の選手より体格で劣り、悩んだ経験から、高校卒業後は「スポーツ科学を学びたい」と考えていた。だが、日本ではスポーツ科学を専攻できる大学はあまりない。そんな折、友人がたまたま持っていた留学案内のパンフレットに目が留まる。
「アメリカはスポーツ科学が日本よりも格段に進んでいることは知っていましたし、英語も学べる。それにアメリカの大学は、日本より学部を変えるのが簡単だとパンフレットに書いていったのも魅力的に感じました」

 留学するにあたっては、もちろん語学力を磨かなくてはならない。高3の夏の大会が終わり、野球部を引退すると、松田はバットをペンに持ち替え、猛烈に英語を勉強し始めた。偶然にも同じように留学を志している同級生が校内にいると知り、その生徒の下を訪ねると、なんと教室内で格闘技をしていた。
「君がアメリカを目指しているの?」
「そうだよ」
「てか、教室で何やっているの?」
 
 ただ、彼のやっている格闘技はとても楽しそうに映った。ヘトヘトになるまで野球に明け暮れた日々から、机にかじりつく生活に一転すると、どうしても体を動かしたい衝動にも駆られてくる。
「おもしろそうだったんで、“オレもやらせて”と。それが格闘技との出会いでした」
 まさか、それが生きる糧になるとは、18歳には思いもしなかった。
 
 すっかり格闘技にのめり込んだ松田は勉強をしながら、大会にもエントリーするようになる。しかも初めて3カ月で出場した新空手道の大会で軽中量級準優勝と好成績を収めた。
「高校時代は野球で甲子園に行ったり、レギュラーになるのが夢でしたが、それは叶わなかった。でも格闘技だと試合に出られるし、応援に来てくれた友人が“元気が出たよ”と言ってくれる。それがとてもうれしかったんです。気づけば格闘技の魅力にどっぷりハマってしまいました」

 念願かなって留学が実現しても、偶然が重なり、さらに格闘技の道を突き進む。インターネットで近所の格闘技ジムを探すと、あるムエタイジムを発見した。
「地下にあって、扉を開けるとオイルと汗のにおいがムワッと押し寄せてくる。これはホンモノだと感じました(笑)」
 そのジムはタイからトレーナーを招聘しており、松田は大学の夏休みを利用して本場でムエタイ修行を積むことになる。試合に出場してファイトマネーをもらい、現地で“プロデビュー”も果たした。

「試合に勝つと、見ず知らずの外国人でも“良かったな”と喜んでくれる。まさに“スポーツに国境はない”と改めて実感させられましたね。最初の滞在は3カ月ほどでしたが、試合や練習以外の部分でも言葉で言い表せないくらい充実していました」
 格闘技中毒――本人がそう表現する状態の中、松田はさらなるレベルアップを目指し、今度はブラジルに渡る。ブラジリアン柔術の習得に励んだ。
(写真:帰国中は日体大のアメフト部とも交流。試合までのモチベーションの高め方などを学生たちに伝えた)

 コーチとの出会いも大きかった。ジムで松田を一から指導してくれたマーク・デラゴラーテは米国の総合格闘技界では名指導者として評価されている。寝技やレスリング技術に長けたファイターに、ムエタイのテクニックに基づいた打撃や首相撲を教え、2009年には全米ナンバーワンコーチに選ばれた。
「マーク以外に教わることは考えられないくらい信頼しています。試合の時には、彼にはこう言うんです。“ジョイスティックは渡したよ”って。僕はマークが持っているコントローラーに従うロボットみたいなもの。実際、試合では彼の言われた通りに動いています」

 着々と実力をアップさせた松田は2011年、Cage Titansという米国のローカル総合格闘技のバンタム級タイトルマッチに挑む。試合はマークの“ジョイスティック”に導かれ、対戦相手を圧倒。文句なしの判定で、ついに王者の称号を得た。

 次なる目標はUFC参戦

 とはいえ異国での生活は決して楽ではない。松田は現在、アスリートビザで米国に滞在しているため、競技に関する仕事以外はできない。収入源は米国人を相手にした1時間80ドル(約7500円)のジムでの格闘技レッスン。スポーツ栄養学を学ぶべく大学院にも通っており、月収は2000ドル(約19万円)にも満たない。この中で日常生活はもちろん、体づくりやケアもしなければならない。

 最も困るのはケガや病気だ。日本のように公的医療保険制度が整っていないため、指を骨折しただけで治療費に日本円で約60万円もかかる。ケガとは背中合わせのアスリートにとって、この出費は痛い。ボストン在住の日本人に支えてもらってはいるが、さらにアスリートとして飛躍を遂げるには、それなりの資金が必要だ。「マルハンワールドチャレンジャーズ」への応募も、そんな動機からだった。

 オーディション後も松田は参加したアスリートたちとの結びつきを強めている。
「ワールドチャレンジャーズに出たアスリートがお互いに助け合うことで、ファンの方も他の競技に興味を抱くきっかけになる。それがまた新たなものが生まれてくると思うんです」
 今回の試合にもカヌーの小松正治らが応援に駆けつけた。松田自身も増田蕗菜のセパタクローイベントに顔を出し、米国に戻る前には選手会を開催し、親交を深めた。
「オーディションが終わって約半年。顔を合わせて話をすることで、改めて目標に向かって計画を実行していこうという気持ちに皆がなったのではないでしょうか」
 競技が違っていても、距離が離れていても、これからも横の連携を大切にしていきたいと強く感じている。

 日本凱旋を最高の形で終えた松田にとって、次なる目標は「UFC参戦」である。UFCは言わずと知れた世界トップの総合格闘技界団体。この3月にも日本で興行を行う。昨年9月ではUFCにつながる「The Ultimate Fighter(TUF)」に日本人で初めて参戦した。TUFでは各階級でUFC出場を希望する選手を招集し、トレーニングや試合を繰り返しながら、セレクションを実施する。その模様はテレビ番組として放送されるほど注目度が高い。松田曰く「納得のいかない判定」で最初の試合に敗れてしまったが、夢には確かに近づいている。

 岡見勇信、秋山成勲、五味隆典ら過去に日本で実績を残し、UFCの舞台に上がった選手はいる。だが、ホームではなくアウェーと言える地で力をつけ、かつ結果を残しての参戦となれば、これは初と言ってよいケースだ。
「言葉はもちろん、日本と米国では試合の始め方ひとつとっても違います。日本なら両選手がリングに上がった後、レフェリーが2人を呼び寄せて、ルールの説明をしてから試合を始めます。でも米国はそんなことはしない。お互いの選手が両コーナーに張り付いた状態から、いきなり開始のゴングが鳴るんです」
 現状、UFCでの日本人は海外の壁に跳ね返され、苦戦が続く。自身が活躍し、日米の違いを伝えることで、海外で一旗あげたい日本人格闘家の役に立てれば――松田はそんな思いも抱いている。

 ボストンでは在住の日本人に恩返しを意味も込めて、格闘技セミナーを開く。競技に支障が出ないよう月1回の開催だが、留学中の学生も、仕事で赴任中のファミリーも一緒になってジムで体を動かす。自身は英語で格闘技を教わっているため、それらをいかに日本語で分かりやすく伝えるかがひとつの課題だ。これも将来、日本に戻って指導者になる上で貴重な体験になると感じている。

「格闘技で僕はここまで成長させてもらいました。勝負師として勝ち続けることはもちろん、ゆくゆくはアメリカでの経験と知識を日本に持ち帰りたい。それが格闘家としてのゴールです」
 米国行きも、格闘技を始めたきっかけも、コーチのとの邂逅も、ひとつひとつみれば偶然かもしれない。しかし、ここまで偶然が重なれば、それは必然である。松田はきっと、この世界に導かれる運命だったのだ。そして、これからもアウェーでの戦いをものともせず、己の信じた道を迷わず進んでいく。

(次回はフリースタイルスキー・大久保亜弥選手を紹介します。2月20日更新予定です)


松田干城(まつだ・たてき)
1986年2月27日、東京都生まれ。Team Sityodtong Boston所属。桐蔭学園高時代まで野球をしていたが、スポーツ科学を学ぶべく米国留学を計画していた時に格闘技と出会う。渡米後も勉学の傍ら、総合格闘技のトレーニングを続け、タイでムエタイ、ブラジルでブラジリアン柔術も習う。08年に総合格闘技プロデビューを果たすと、11年4月にはCage Titansのバンタム級王座に(現在も防衛中)。同年9月にはUFCへの登竜門となるThe Ultimate Fighterに日本人として初めて参加する。セーラム州立大卒業後、現在はノースイースタン大でスポーツ栄養学の修士課程を履修中。12年8月の第2回「マルハンワールドチャレンジャーズ」では協賛金50万円を獲得し、審査員の魔裟斗賞を受賞した。同12月には日本で初の凱旋試合を行い、1RKO勝ち。プロ戦績(総合格闘技)は11戦8勝(4KO)3敗。170センチ。
>>公式サイト


『第2回マルハンワールドチャレンジャーズ』公開オーディションを経て、7名のWorld Challengers決定!
>>オーディション(2012年8月28日、ウェスティンホテル東京)のレポートはこちら


※このコーナーは、2011年より開催されている、世界レベルの実力を持ちながら資金難のために競技の継続が難しいマイナースポーツのアスリートを支援する企画『マルハンワールドチャレンジャーズ』の最終オーディションに出場した選手のその後の活躍を紹介するものです。

(石田洋之)
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