大阪体育大学を卒業後、土橋が籍をおいたのはTASAKIペルーレFCだ。ペルーレは総合宝飾品メーカーの田崎真珠がバックアップし、神戸に本拠地を置くチーム。土橋は社会人生活を送りながらサッカーを続けることとなった。
 TASAKIは土橋の加入した2002年には、Lリーグの屈指の強豪クラブとなっていた。女子サッカーのオープントーナメントである全日本女子サッカー選手権(男子の天皇杯に相当)では01年に初優勝。リーグ戦での優勝こそないものの、常に日テレ・ベレーザらと首位争いを繰り広げるチームだった。土橋は1年目からレギュラーとして出場し、右サイドハーフとして活躍する。「当時のTASAKIはとにかく攻め上がれというスタイル。ボールを持ったら、まず前を向くことだけを考えた」という攻めが身上のクラブだった。

 Lリーグのトップクラブに身を投じた土橋は、親会社の田崎真珠の社員としてアマチュア契約でサッカーを続けた。午前中は会社に出社し、午後には練習場へ向かうという生活を送っていた。サッカーの才能を見込まれて入社したとはいえ、普段の業務も行なわなければいけない。土橋が担当した仕事は販売店での接客業務だった。「人見知りする性格だったんですが、それでは宝石は売れませんよね(笑)。最初は慣れませんでしたが、一般の社員の方に負けないようがんばりました」。元来、宝石には興味がなかったが、仕事で関わっていくうちにその世界の楽しさを知った。

 TASAKIでは周りの選手からも多くの刺激を受けた。代表に名を連ねる選手以外でも、全員の意識が高かったのだ。TASAKIのメンバーはそのほとんどが会社の寮で生活をしていた。午後の練習から生活の拠点まで同じTASAKIのスタイルは、土橋に多くのものを与えてくれた。
「普段から口にする食べ物に関しても、日常の生活習慣にしても、全員がとても気を配っていました。寮での生活ですから遅く帰宅することもできませんし、サッカーに集中するには非常にいい環境でした」
「それにも増して試合中での厳しさがすごかった。TASAKIはもともと2部にいたクラブですが、そこから少しずつ這い上がってきた。つまり選手がトップにいることの難しさをよくわかっていたんです。だからTASAKIではメンタル面がすごく強くなりました」

 土橋の加入後もTASAKIは全日本で03、04年と連覇を達成。03年にはLリーグでクラブ創設以来の悲願である初優勝を果たした。この優勝でTASAKIは名実ともに日本を代表するクラブへとなっていった。

 2部でのプレーが意識を高めた

 土橋に転機が訪れたのは06年。長野県上田市に本拠地を置く大原学園JaSRA女子サッカークラブから声がかかった。大原は03年からLリーグに参加したものの、04年を最後に1部から2部リーグに降格していた。
「以前から活動を行なっていたクラブですが、当時は女子サッカーに対してさらに力を入れていこうという方針でした。クラブ強化をする過程で、知人を介して私のところに女子サッカーの現状を聞きたいという話が来ました。そこで色々と情報を提供してきたのですが、その流れで私も大原でプレーすることになったんです」

 大原への移籍によって生活は大きく変わった。TASAKIでは販売の仕事があったが、大原では仕事面での後ろ盾になるものがなかった。試合や練習の合間を縫って、バイト生活をしながらプレーを続けた。また、四国育ちで関西圏より西にしか住んだことのない土橋にとって、冬の雪道での運転も苦労した。
 さらに、大原とTASAKIの最大の違いは選手の質にあった。それはサッカーの技術面ではなく、意識の差だったと土橋は振り返る。
「大原は専門学校が母体になっているクラブです。そのため学生の選手もたくさんいました。私が移籍したのは26歳の時なので、周りは年下の選手たちばかり。TASAKIの時には先輩がたくさんいて、その人たちの後ろをついていくというところもありましたが、大原ではそういうわけにはいかない。みんなを引っ張っていかなければいけない立場になり、サッカーに対する考え方が大きく変わりました」

 幼い頃から土橋の姿を影で見つづけてきた父・克彦も彼女の変化を感じ取っていた。
「大学から社会人になっても年々うまくなっているように思いますが、大原に行った時に中心選手となってポジション取りや指示の仕方が変わった。選手として大きく成長しましたね。本人の自覚が違ったのでしょう」

 大原での一年は強豪クラブでの日々同様に大切なものとなった。
「TASAKIにしても今のレッズレディースにしても、伝統のあるチームの選手は責任やプライドを持っているんです。若い選手は1試合ずつ気持ちをいれているつもりでも、どうしても緊張が緩んでしまうことがあります。“誰かがやってくれる”というのではなく、“一人ひとりが責任を持ってやらないといけない”。これを本当の意味で気付かせてくれたのが大原での経験ですね」

 06年、なでしこリーグディビジョン2で2位となった大原は1部2部入れ替え戦で1部7位のスペランツァF.C.高槻を下し、3年ぶりの1部昇格を果たした。改めて言うまでもなく、チームを鼓舞しつづけた土橋の活躍は昇格に不可欠な要素だった。そして土橋はクラブの1部昇格を置き土産に、浦和レッズレディースに移籍することとなる。

 昨年の北京五輪ベスト4で脚光を浴びた「なでしこジャパン」の中には数名のプロ選手がいる。しかし、女子サッカー選手のほとんどがアマチュアとしてプレーを続けている。

――仕事と競技の両立するために必要なものとはなにか? この問いに土橋は力強くこう答えた。
「とにかく妥協しないこと。やるからには一生懸命やらないといけません。時には失敗もあるとは思いますが、後で後悔しないようにしています。あそこでこうやっていればよかったと思うのは嫌なので、できることを妥協せずに最後までやる。手を抜いたプレーをしたら、それはもう私のサッカーではありません」

 これまで大きなケガを一度もしたことがない土橋。彼女の根底にある気持ちが、順調なサッカー人生を送ることができる秘訣なのかもしれない。

(第5回につづく)
>>第1回はこちら
>>第2回はこちら
>>第3回はこちら
>>第5回はこちら

土橋優貴(つちはし・ゆうき)プロフィール>
1980年1月16日、徳島県阿南市出身。小学2年から父親の影響で地元の少年サッカークラブでサッカーを始める。富岡東高では陸上部に所属、高校3年時に100mハードルでインターハイに出場。98年、大阪体育大に進学し女子サッカー部に所属。在学時に日本代表に初選出される。02年、田崎真珠に入社しTASAKIペルーレFCに所属。03年にはリーグ戦優勝、03・04年全日本女子サッカー選手権を連覇。06年、大原学園JaSRAサッカークラブへ移籍、当時2部だった同クラブを1部昇格に導く。07年、浦和レッズレディースに移籍。右サイドバックとして活躍し、09年なでしこリーグ優勝に大きく貢献する。






(大山暁生)
◎バックナンバーはこちらから