高校卒業後、大阪体育大学へと進学した土橋は女子サッカー部に入部した。大体大は大学女子チームにとって最大目標となる全日本大学女子サッカー選手権で優勝経験のある強豪チームだ。しかし、土橋にとって大体大を選んだ最大の目標は、教員免許を取得すること。学校の先生への道を模索しての選択だった。
 大体大でのポジションは、これまで同様右のサイドハーフ。ライン際を駆け上がり、攻撃参加するスタイルに磨きをかけていった。大学2年時には、全日本大学選手権のビッグタイトルを獲得する。決勝戦での相手は日本体育大学。それまで4連覇を果たしていた東のライバルに対しスコアレスドロー、PK戦で一矢報いる形となった。その後、日体大は再び同大会を5連覇したため、大体大の優勝は日体大の10連覇を阻む形となった。

 大体大在学時、土橋にとって大きな出来事が起きたのは2001年8月。女子サッカー日本代表に選出されたのだ。当時の代表チームには澤穂希、川上直子、大部由美と海外や国内のトップリーグで活躍する選手たちが選出されていた。メンバーの中で唯一の大学生プレーヤーだった土橋にとって、代表での経験は何物にも替え難いものとなった。

「代表に入っている選手のみなさんは、サッカーに対してすごく真面目に考えていました。また、真剣に取り組も姿勢が勉強になりました。高いレベルの選手は練習中はもちろんですが、試合中でも周りに指示を出す声が大きいんです。それまでは自分があまり声を出すタイプではなかったので、これは大事だなと感じました」

 初招集された大会は中国で行なわれた極東4カ国対抗戦。中国と韓国に加えゲスト国としてブラジルが参加した大会において、土橋は第2戦の中国戦で先発出場し、Aマッチデビューを飾った。続く9月には米国遠征となるナイキカップに帯同する。ドイツ、中国との2試合で途中出場ながらピッチに立った。

 その年の12月には第13回アジア女子選手権(現・AFC女子アジアカップ)が台湾で開催され、土橋も代表メンバーに選出された。日本はグループリーグを2勝1敗で突破し、決勝トーナメントではベトナム、韓国を撃破。同大会で4度目となる決勝の舞台に駒を進めた。決勝の相手は北朝鮮だ。グループリーグでは0−1で敗れている強豪を相手に、決勝の舞台でリベンジを果たしたかった。しかし、結果は善戦及ばす0−2で惜敗。初のアジア王者へはあと少しのところで届かなかった。日本がアジアカップ決勝に進出したのはこの時が最後で、未だアジアの頂点までたどり着いたことはない。

 土橋は準決勝の韓国戦で途中出場を果たすものの、この大会ではベンチを温めることが多かった。それでも決勝まで辿り着く過程で得たものは少なくなかった。特に大部のプレーぶりに刺激を受けたという。大部といえば、高校生の頃から代表に名を連ね、長くチームを最終ラインから支えた名プレーヤーだ。アテネオリンピックではキャプテンも務め、06年に現役を引退するまでに歴代4位となる代表通算85試合に出場し、6ゴールを挙げている。

「大部さんは常に気持ちの入ったプレーをされていました。サッカーをものすごく考えていて、いつも大きな声を出していた。その後の自分のプレーに大きな影響があったと思います」

 土橋は残念ながらこの大会以降、日の丸のユニフォームに袖を通していない。Aマッチ出場は4試合にとどまる。
 いつかは代表でプレーをという想いはないのか――?
「うーん、代表というよりは、レッズでタイトルを獲ることが最優先でしたから。今はレッズが一番という気持ちが強いので、この先も代表へのこだわりはないですね」

 決意を固めるきっかけとなったスタッフの言葉

 大学生の土橋が代表で得たものは、貴重な経験だけではなかった。今後のサッカーに対する姿勢が定まったのも、この時だった。大学で教職課程を専攻し、教員免許を取得するために学業にも力を入れていたが、サッカー協会のスタッフの一言でサッカーを第一線で続けていくことを決心した。

「遠征に帯同されていた方が“仕事はいつでも始められるのだから、サッカーを続けたほうがいい”と言ってくださったんです。たしかに仕事に就くことはサッカーを辞めた後でもできますが、一度サッカーを辞めてしまったら、トップのレベルへ戻ってくることは難しいですよね」

 そして土橋は満面の笑みで、こう続けた。「あの時の選択は、間違っていなかったです」。

 代表招集はサッカーに対する気持ちの面だけでなく、その後の進路を決定する上でも大きな転機となった。当時、代表を率いた池田司信監督の下でコーチを務めていたのが仲井昇だ。トップリーグの名門・TASAKIペルーレFCで監督を務める仲井が土橋のプレーに目をかけていた。

 大学4年間で教職免許を取得し、いくつかの教員採用試験にも挑戦をした。しかし結果は全て不合格。その後の進路について迷っていた彼女に声をかけたのが仲井だった。TASAKIペルーレFCといえばクラブチームが多くを占めるトップリーグの中にあって、しっかりとした経営基盤を持つ親会社がバックアップするチームだった。90年代前半は下部リーグに所属していたものの、仲井がチームを率いてからは着々と力をつけ、95年に1部リーグへ昇格。土橋の大学卒業時にはLリーグでも指折りの実力を持つクラブとなっていた。代表には先述の川上の他に、磯崎浩美や大谷未央らを送り込んでいた。バックアップ体制の整っている田崎からの誘いは、土橋にとって願ってもないチャンスだった。

「先生への道はなかなか難しいものでしたが、結果的にはTASAKIに入ることができて幸運でした」と土橋。教員を目指して進んだ大学は、サッカー選手としての可能性を広げる最高の環境だったのだ。

(第4回につづく)
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土橋優貴(つちはし・ゆうき)プロフィール>
1980年1月16日、徳島県阿南市出身。小学2年から父親の影響で地元の少年サッカークラブでサッカーを始める。富岡東高では陸上部に所属、高校3年時に100mハードルでインターハイに出場。98年、大阪体育大に進学し女子サッカー部に所属。在学時に日本代表に初選出される。02年、田崎真珠に入社しTASAKIペルーレFCに所属。03年にはリーグ戦優勝、03・04年全日本女子サッカー選手権を連覇。06年、大原学園JaSRAサッカークラブへ移籍、当時2部だった同クラブを1部昇格に導く。07年、浦和レッズレディースに移籍。右サイドバックとして活躍し、09年なでしこリーグ優勝に大きく貢献する。






(大山暁生)
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