週刊誌の現場は楽しかった。
 芸能、事件などを追いかけ、様々な人に話を聞いた。仕事を覚えるために最初は、必死で走り続けるしかなかった。
 そのうち、自分の中で不満が溜まるようになってきた。

(写真:日本からの移民は、第二次世界大戦後、リベルダージと呼ばれる地区に集まった)
 毎週、それなりの売り物になる記事を作っていたつもりだったが、後から読み直すと、どれも表面をさらりと撫でただけだった。
 悪くない給料が保障され、それなりに変化のある毎日を送ることは悪くない。ただ、本当にこれがぼくのやりたいことだろうか。
 出版社には、5年間働くと1年間程度の休暇が取れるという制度があった。
 ある程度まとまった休みを取らせて、留学など見聞を広めるというのが会社の意図だったろう。
 ただ、無給とはいえ、1年間も休暇を取ることは、横並び意識の強い日本企業では一般的ではなかった。出世に遅れが出ると考えた人もいただろう、仕事量の多い、いわゆる看板雑誌では誰もこの休暇を取っていなかった。
 入ったときから、この出版社に一生務めるつもりはなかった。ただ、出版社を辞める勇気もなかった。ぼくにとってはこの長期休暇は都合が良かった。
 休暇の申請は、半年前から受け付けていた。ぼくはきっちり入社四年半で、休暇の申請をした。
 話はすぐに広まり、先輩たちや同僚から、「何をしに行くのだ」と何度も聞かれた。
 アメリカで大学院に入る、あるいは語学学校に行くという答えならば納得したのかもしれない。しかし、ぼくは単に「南米に行く」としか決めていなかった。
「南米をバスで回ってこようと思って」
 半分があきれ顔で、半分が羨ましそうな表情になった。
 予想通り、周りの反感を買ったようで、休暇の申請後、仕事を干された。それでもぼくは気にしなかった。休暇を知らせる葉書を作り、知人に郵送した。

 数日後、電話があった――納谷宣雄からだった。
「お前、南米ってどこに行くんだ?」
「まずは、サンパウロに入ろうと思っていますが、それ以外は決めていません」
「サンパウロはどこに泊まるつもりだ?」
「それも決めていません。長期滞在用のフラットを探して……」
 納谷はぼくの言葉を遮った。
「お前、俺のところに泊まればええ。日本人街にアパートがある。知良も昔住んでいたところだ。タダでいいよ」
「いや、それは悪いですから」
 当然のことながら、取材相手に借りを作るつもりはなかった。
「いいんだ。誰も使っていないんだから」
 話を聞くと、しばらく部屋は誰も使っていないという。家具類は一切なく、自分で住めるように手入れをしなければならない。
 それならば話は変わってくる。結局、ぼくは、家具を揃え、月々の管理費、光熱費を支払うということ、他に使いたい人間がいる時にはすぐに引き払うという約束で借りることにした。
 ブラジルの通貨レアルの価値は上がっており、サンパウロは、南米大陸で物価が最も高い街となっていた。安宿を長期で借りるにしてもそれなりの出費になる。非常にありがたい話だった。
 そして、1997年6月9日、ぼくは日本を後にしてブラジルに向かった――。

 アパートは、サンパウロの日本人街リベルダージの外れにあった。何十年もの雨風で、外壁のコンクリートは煤けていた。蛇腹式の古いエレベータがあったが、停まったままだった。都内にあれば廃墟の部類に入るかもしれない。
 2LDKの部屋は、ゆったりとした作りだった。床板は張り替えて窓から入った太陽の光をやわらかく反射していた。窓を開けると、大きな綿埃がころころと転がった。外から見るよりもずっと快適そうだった。
(写真:日本を意識した街灯が、リベルダージ地区のシンボルだ。そもそもは日本の映画館があり、日系人が集まった。その後、韓国系、中国系が増え、東洋人街となった)

 三浦知良が住んでいたとき、この部屋に当時お気に入りだった女性タレントのポスターを貼っていたという。彼女に会えることを励みに、毎日腹筋運動をしていたと思うと、感慨深かった。
 女性タレントとは、もちろん設楽りさ子。現在の夫人である。
 納谷はサッカー留学を手がけており、100人近くの留学生がサンパウロ州とパラナ州に散らばっていた。事務所の人たちが、ぼくの生活を手助けしてくれた
 ベッドとマットレスを買い、テレビなどの家電製品は、知り合った人が使わなくなったものを持ってきてくれた。
 インターネットに接続するために電話回線を契約し、最低限生活できる環境が整うまで2週間ほど掛かった。
 それから、ぼくはサンパウロ州を皮切りに、ブラジル中を見て回ることにした。そこで、納谷、そして三浦知良の欠片を見つけた。


 納谷がブラジルに渡ったのは、82年のことだ。息子の泰年、知良がその後を追った。
 当時、ブラジルサッカーの力は圧倒的だった。ブラジルのサッカーを子どもに体験させたいと、長崎の国見高校サッカー部の小嶺忠敏から連絡が来た。納谷の口利きで、学生たちは、ブラジルのサッカークラブの合宿所で生活し、練習に参加した。
 短期間でもブラジルの空気を吸った選手たちは、大きく力を伸ばした。その話を聞いた指導者から、次々とサッカー留学の手配を頼まれるようになった。
 爆発的にサッカー留学生が増えたのは、息子の知良の活躍が日本に伝わってからだ。
 同時期、日本ではプロリーグの準備が進んでおり、人気が急速にふくれあがっていた。王国ブラジルの名門サントスとプロ契約を結んだ知良は、憧れの存在となったのだ。
 何より知良が少年の心を惹きつけたのは、彼が子どもの頃、全国的に名前を知られた存在でも、将来を嘱望された選手でなかったことだ。
――ブラジルに行けば、自分もカズのようになれるかもしれない。
 Jリーグ開幕前の90年頃、納谷が抱える留学生は200人を超えていた。90年7月、知良は読売クラブと契約を結び、日本に帰国することになった。念願だった日本代表にも選ばれた。親子の夢は叶った、はずだった。
 しかし、人生はそう順調に行かない。
 知良が日本に帰国した翌91年、納谷は倒れた。病院に運ばれた時、意識不明だった。誰もが死んだと思った−−。


(続く)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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