「選手第一」 残された選択はアジア杯開催国変更のみ
ヨハン・クライフとその仲間たちが世界を驚かせることになる74年W杯西ドイツ大会が開幕する4日前、国際サッカー連盟(FIFA)は12年後、86年のW杯をコロンビアで開催すると発表した。
82年W杯スペイン大会決勝。イタリアのディノ・ゾフ主将がカップを掲げたサンティアゴ・ベルナベウの電光掲示板には“Nos vemos en Colombia 86”の文字が流れた。コロンビア86で会いましょう――それが、82年7月11日時点におけるFIFAのメッセージだった。
だが、その4年後の5月31日、イタリアとブルガリアがW杯の開幕戦を戦ったのは、エスタディオ・アステカ――つまりはメキシコだった。
実を言えば、この齢になるまで、わたしはコロンビアがW杯開催を返上したのは83年3月31日に起きた大地震が原因だと思い込んでいた。だが、改めて事実関係を調べてみると、真相は違っていた。
82年のスペイン大会から、FIFAはそれまで16カ国だった出場国を24カ国に拡大させた。そして、コロンビアが開催に名乗りをあげたのは、大会が16カ国で行われていた時代だった。
大会の規模が拡大したことで、コロンビアは財政、施設の両面において、FIFAの求める条件を満たせないことが明らかになった。
当然、コロンビアは開催のために懸命の努力を続けたはずだが、FIFAを満足させることはできなかった。かくして、中米の経済大国であり、70年大会を開催した実績のあるメキシコが、急きょ代替開催国として決定したのだという。
ところが、これで一件落着、というわけにはいかなかった。開幕まで8カ月を切った85年9月19日、マグニチュード8.0の巨大地震が首都メキシコシティーなどを襲った。犠牲者は1万人を超え、10万人以上が家を失った。当然のように世界中からは開催を危ぶむ声が上がり、メキシコ国内でも「W杯どころではない」という意見はあったという。
ただ、最終的にメキシコ国内は開催の方向で固まり、FIFAは予定通りの日程、会場でW杯を行うとの決定を下した。街中のあちこちに、巨大地震による爪痕が残る中での開催だった。
いまになって振り返ってみると、あの開催がどれぐらい奇跡的なことだったかがよくわかる。あの東日本大震災に匹敵する規模の惨事から、わずか8カ月後のW杯開催である。サッカーにかけるメキシコ国民の思いの深さには驚嘆するし、よくぞFIFAも踏み切ったものだと思う。
何より驚かされるのは、メキシコからもFIFAからも「日程を変更しよう」という動きが一切なかったことである。少なくとも、日本交通公社(現JTB)のW杯観戦ツアーに申し込みをしていたわたしは、地震からそう時間が経たない段階で「予定通り開催されるみたいです」と担当者から連絡をいただいた記憶がある。
なぜ日程は動かなかったのか。理由の一つに、選手第一の思想があったことは間違いない。W杯から逆算してコンディションをつくり上げていく一流選手は珍しくない。だが、日程が変われば、計画は大きく狂う。所属クラブの負担も生じる。よほどのことがない限り、W杯や五輪のような大会の日程が変更されることはない。
たとえば、コロナのような全世界的な異常事態でも起きない限り。
10月10日と11日、過激派によるサウジアラビア・リヤドの国際空港への攻撃が起きた。来年1月7日に開幕するアジア杯に向けて、安全面での懸念が高まっている。
いまのところ、アジアサッカー連盟(AFC)は何の公式声明も発表していない。ただ、現地、もしくは欧州のメディアの中には、テロの影響として大会の延期の可能性に触れたところがあった。
何としても大会を開催したいサウジの気持ちはわかる。だが、各国がこの大会のために日程を組み、選手の体調管理や所属クラブとの交渉に費やしてきた時間と労力を考えると、延期が選手のためになるとは言い難い。日程を動かさないという前提に立つのであれば、残された選択は一つ。開催国の変更である。
<この原稿は26年10月15日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>