自衛隊での生活も板についてきた2014年、大谷翔司は一大決心をする。身体を動かすことが好きで、好きな格闘技もできる。理想の職場を捨ててまで挑戦したいものとは――。

「自衛隊に不満があったわけではありません。ただ格闘技で、“東京で一花咲かせたい”と思うようになったんです」

 

 こうと決めたらテコでも動かないタイプだ。懇意にしてもらっていた上官には引き留められたが、決断は揺らがなかった。“東京で一花咲かせる”とは、もちろん格闘家としてだ。まずはプロを目指し、地元・愛媛に戻った。

 

 実家に帰り、愛媛の運送会社で働いた。上京するための資金を稼ぎながら、高校時代に通ったキックボクシングジムの武勇会館で鍛えた。週5、6でトレーニングを積みながら、まずはプロライセンス取得を目指したのである。

 

 キックボクサーのプロライセンスにはボクシングと違い、統一ライセンスはなく、国内で10を超える団体がそれぞれにプロテストを開催し、独自のライセンスを発行している状態だ。大谷が目指したのはJAPAN KICK BOXING INNOVATION(略称・INNOVATION)。13年に設立された団体だが、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟の伝統を受け継いでいる。

 

 プロテストは筆記と実技試験を行う。筆記は80点以上で合格。実技はプロ興行の前座試合に出場し、ジャッジされる。公認審査員3名が攻撃・防御・体力を各5点満点で評価し、30点以上を獲得すればINNOVATION認定プロ選手として公式戦にエントリー可能なA合格となる。

 

 14年8月、アイテムえひめでの実技試験。大谷は参加者トップの36点をマークした。ところが筆記試験が75点だったため、追試を受ける羽目になったものの、なんとかプロライセンスを取得することができたのだった。

 

 ライセンス取得で、さぁ東京へ。とはいかず、すぐに愛媛を飛び出さなかった。その理由を大谷はこう振り返る。

「貯金など東京に行くための準備をしました。キックボクシングの実力も“まだ弱い”と思っていた。約半年、仕事でお金を稼ぎながら練習を積みました」

 

 15年5月、ほぼカバン一つで上京した。所属先は現在と同じスクランブル渋谷だ。インターネットで検索し、自身が求める条件の合うジムだった。

「渋谷には何度か行ったことがあったので、知ったまちということも理由でした。会長(増田博正代表)に『INNOVATIONのライセンスを持っているんですが、こちらでプロを目指して練習させてもらえませんか』と話したら受け入れてくれました」

 

 引退もよぎった3連敗

 

 住むところも決めていなかった。ここから家探しが始まった。プロライセンスを取得していたとはいえ、プロデビューはしていない。世間的には無職に過ぎない。賃貸契約は難航するかと思われたが、何軒目かの大家が大谷の話を聞き、親の承諾のみで家を貸してくれた。

 

 所属先、住居を決めていった大谷は、都内のカジュアルバーで働き始めた。じきに現在も働く渋谷の「BAR 30 CLUB」に出合った。当初は掛け持ちしていたが、すぐに「BAR 30 CLUB」一本に絞った。今では店の常連が試合の応援に来てくれ、オーナーも“キックボクサー大谷翔司”にパンツスポンサーに名を連ねる。大谷の支えとなっている大切な場所だ。

 

 東京で戦う地盤を手にした大谷。スクランブル渋谷で日々鍛えながら、実戦キャリアの浅さを考慮し、アマチュアの試合を10戦こなした。15年11月にはプロデビューへの登竜門的な大会の『第13回 J-NETWORKアマチュア全日本選手権大会~秋の陣~』ではライト級を制した。愛媛時代と合わせて14戦12勝2分けの戦績でプロの舞台に乗り込むこととなった。

 

 デビュー戦は16年4月、東京・ディファ有明での『REBELS.42』である。姜君(ウィラサクレック・フェアテックスジム)と戦い、2ラウンド1分32秒TKOでプロデビューを飾った。続く6月のINNOVATION主催『Join Forces-1』(東京・新宿FACE)で判定勝ち。「今振り返ると、当時は勢いでやっていた」と大谷。順風満帆なキックボクサー人生を歩むかと思ったが、勢いだけで勝ち続けられるほど甘い世界ではかった。

 

 7月の『REBELS.44』(ディファ有明)でウザ強ヨシヤ(当時・テッサイジム)に初黒星を喫する。東京で一旗揚げようと大志を抱いた大谷からすれば、よもやの敗戦だった。「負けたことでモチベーションが下がり、そこからずるずると……」。結局、3連敗と通算戦績でも負け越してしまう。

 

「その時にハッと気づいたんです。“このままだと愛媛に帰らないといけない”と」。辞めたいと思ったわけではないが、負けが込めば自然と進退について考えもおかしくはない。「会長をはじめ、周囲の方から厳しくしてもらった。自分も結果を残して信頼を取り戻さないといけないと思いました」。食生活から見直し、酒を飲むこともやめた。練習に対する意識も徐々に変えていった。

 

 プロ6戦目、16年11月の『REBELS.47』(東京・後楽園ホール)で聖也(WSRフェアテックス西川口)を判定3-0で下し、連敗のトンネルから抜け出した。「ホッとしました」と大谷。この一戦に進退をかけていたわけではないが、もし連敗をしていれば現在の大谷翔司はいなかったかもしれない。白星の数も増やし、チャンスが巡ってきた。上京して約4年。ようやくタイトルマッチに挑戦する機会を手にしたのだ。

 

(最終回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

大谷翔司(おおたに・しょうじ)プロフィール>

1991年1月12日、愛媛県北宇和郡松野町生まれ。小学1年時にスポーツ少年団でソフトボールを始め、中学・高校は野球部に所属した。高校卒業後は陸上自衛隊に入隊。約5年間歩兵部隊に配属される、徒手格闘訓練隊で鍛錬を積んだ。23歳の時にプロ格闘家になることを決意し、自衛隊を退職。アマチュアで14戦12勝2分けと負けなしで、「第13回J-NETWORKアマチュア全日本大会~秋の陣~」で優勝を果たした。15年に上京後はスクランブル渋谷で鍛え、16年4月プロデビュー。20年8月のINNOVATIONライト級王座決定戦で紀州のマルちゃんを破り王座獲得。21年12月には紀州のマルちゃんと再戦を行い、1ラウンド1分21秒KOで初防衛に成功した。プロ通算15勝7敗3分け。身長178cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 


◎バックナンバーはこちらから