伊予中学に進学してからは、水泳とトライアスロンが中心となっていた河内彩衣琉(こうち・あいる)。陸上から離れていたのは同校に陸上部がなかったことも無関係ではなかっただろう。彼女の3年時、伊予中に小笠原陽子が赴任してきてから、風向きは変わった。

 

 河内の述懐――。

「先生の指導で記録会や大会に出場するようになり、1位にもなれた。中学に入ってから陸上の練習はそれほどガッツリしていなかったのですが、タイムもどんどん伸びていくようになりました」

 結果が出て楽しい、と陸上に気持ちが傾いていっても何ら不思議はない。2014年8月に6位入賞を果たした日本ジュニアトライアスロン選手権(U15)でも、ランで大きく順位を上げた。一度は離れていた陸上の道を再び歩み始めたのだった。

 

 高校は岡山の強豪・興譲館から誘いがきていたものの、小笠原をはじめ県内に残ることを勧めた人が多かったため、松山商業を選んだ。同校はOGに女子マラソンで2004年アテネオリンピック5位入賞、世界選手権のメダルを2個獲得した土佐礼子らがいるが、河内入学時に長距離ブロック女子部員は少なかった。

 

 現在も同校の陸上部顧問を務める濱田定幸は、中学時代の彼女を大会などで見かけていた。

「走りが粘り強い。“意思の強い走りをするな”という印象を持っていました」

 

 濱田の言う“意志の強さ”とは練習への姿勢にも表れていたという。

「とにかく“練習の虫”。入学当初は練習量を抑え、学校生活に慣れてきてから増やしていこうと考えていました。しかし、私が課した練習量に対し、彼女の疲労度が合わない。よくよく話を聞いたら、練習後に数km泳ぎ、自転車で10km以上かけて帰宅していた。トライアスロンをしていたからか、自転車もゆっくり漕いでいたわけではありません。故障して走れなければ、長い距離を歩くなどして休もうとしませんでした。普通なら生徒に対して『もっと頑張れ』と檄を飛ばすことがありますが、彼女の場合は『無理をするな』と、何度も注意していました。それくらい走るのが大好きな選手でしたね」

 

 大会前の調整練習でも近くに男子が走っていると、ペースを上げて競おうとしてしまうほど負けん気が強い河内。彼女の“負けず嫌いエピソード”は、高校時代も尽きない。再び濱田の証言を紹介する。

「朝練習は通常6時半集合。私は生徒より早くグラウンドに出るのですが段々、その時間が早くなってきた。気が付くと6時前。その時にどの部員よりも早く来ているのが河内なんです。彼女は、自分で弁当もつくっていた。ある日、彼女の母親に話を聞くと、『先生と競争しているようなんです』と言っていましたよ」

 

 諦めない強い気持ち

 

 松山商は兵庫の強豪・西脇工業と定期的に合同合宿を組んでいる。当時の西脇工には、のちに東京オリンピック1500m8位入賞を果たす田中希実らがいた。河内は全国トップレベルの選手たちに大いに刺激を受けたという。先述したように松山商の長距離ブロックの部員が少なかったこともあり、河内の在学中は全国高等学校駅伝競走大会(全国高校駅伝)に出場できなかったものの、個人では全国大会の舞台に立った。

 

 全国高校総合体育大会(インターハイ)には2度出場。2年時は3000mで予選17位、3年時は同種目で予選15位だった。高校時代のハイライトは17年7月に出場した愛媛県陸上競技選手権だろう。1500mで5位入賞、5000mは大会新の16分41秒05をマークし、2位に1分近い差をつけて圧勝したのだ。

 

 大きなケガなく過ごしていた高校時代だったが、秋に暗雲が立ち込める。10月中旬、自転車同士の接触事故で、鼻を骨折し、ヒザの骨挫傷を負ってしまったのだ。約2カ月走ることができず、高校最後の全国都道府県対抗女子駅伝競走大会(全国女子駅伝)のメンバー入りは絶望的かと思われた。ランニングを再開できたのは12月上旬。それでも河内は諦めなかった。1月上旬の選考レースで結果を残し、メンバー入りに滑り込んだ。

 

 濱田はこう振り返る。

「走れない時に、諦めずに水泳、バイク、補強等を徹底的にやっていたおかげ。それに加え、彼女の“絶対メンバーに入ってやる”という意地が結果に表れたのだと思います」

 河内の負けん気、そして“努力は裏切らない”という信念が結実した瞬間でもあった。

 

 河内本人は高校時代を振り返り、「先生にはよく怒られていた記憶しかないです」と頭をかく。その点は濱田の記憶とは少し異なるようだ。「彼女を注意するのは練習をやり過ぎることくらい。生活日誌も丁寧に書いていた印象があります」。河内は勉強も怠らなかった。「1位を取りたいという気持ちが強かった」と彼女の負けず嫌いは、学業でも発揮された。成績はオール5。成績優秀者数名に贈られる優等賞も受賞した。卒業式には答辞を任されるほどだった。

 

 河内は高校卒業後、松山大学に進む。彼女が高2の秋、松山大は16年全日本女子大学対抗駅伝競走(全日本女子大学駅伝)で初優勝を果たすなど、女子大学陸上界にスカイブルーの新風を吹かせていた。同年のリオデジャネイロオリンピック3000m障害には、高見澤安珠(当時3年)が出場した。「私もいつかそうなりたい」。日本一や日本代表という大志を抱いた河内を待っていたものとは――。

 

(最終回につづく)

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河内彩衣琉(こうち・あいる)プロフィール>

1999年4月2日、愛媛県伊予市出身。父親の影響で物心つく前から陸上を始める。少年団には所属せず、陸上、競泳、トライアスロンの大会に出場した。トライアスロンでは2013年に日本トライアスロン連合のジュニア強化選手に選ばれ、14年には日本ジュニア選手権(U15)6位入賞という実績を残した。松山商進学後は陸上に専念。全国高校総合体育大会(インターハイ)には2年時と3年時の2度出場した。18年に入学した松山大では、ケガで苦しんだものの、2年時に19年の中国四国学生陸上競技対校選手権大会(中四国インカレ)1万mで優勝を果たした。4年間で大学駅伝の全国大会は5度出場。今年4月からベアーズに入社し、同社女子陸上部のBears Camellia(ベアーズカメリア)で、マラソンの日本代表入りを目指している。1万mの自己ベストは32分58秒50。5000mは16分17秒60。身長158cm。

 

(文・写真/杉浦泰介、プロフィール写真/ベアーズ提供)

 


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