仙台育英高校時代、うなりをあげるストレートで観客を沸かせた由規。プロ入り後、右肩の手術という困難を乗り越え、現在もマウンドに立ち続けている。その胸中に当HP編集長・二宮清純が迫る。

 

二宮清純: 由規さんの母校・仙台育英高校が、この夏の甲子園で初優勝を果たしました。優勝旗が初めて白河の関を越え、地元・宮城県や東北はもちろん、全国の野球ファンが沸いています。OBとしてもうれしかったのでは?

由規: 実は、決勝戦を甲子園のスタンドで観戦していたんです。決勝で校歌を聞くことができて、感無量でした。

 

二宮 3回戦(対明秀日立高校)こそ接戦だったものの、決勝を含めて危なげない勝ち方でした。後輩の戦いぶりをどう見ていましたか。

由規 気になって県予選から見ていましたが、投げる方はよくても打つ方が不安で、正直、「甲子園では苦戦するかな……」と思っていました。点数だけを見ると打線が頑張った感じですが、私はピッチャーの継投策が見事にハマッたと感じています。

 

二宮: 主力のピッチャー5人全員が、最速145キロを超えていました。須江航監督の継投も見事で、甲子園にイノベーションを起こしました。それにしても、時代が変わったと感じます。由規さんの高校時代は、1人で投げ抜くのが当たり前でしたよね。

由規 はい。周りもそう思っていたでしょうし、自分にもそう言い聞かせていました。

 

二宮: 由規さんは、甲子園に何回出場されましたか。

由規: 3回です。2年の夏と3年の春夏。もっとも、最高でも2回戦で、思うように勝ち進むことはできませんでした。

 

二宮: 由規さんといえば、150キロ台の快速球が代名詞です。高校時代の最速は?

由規 一番速かったのは、2007年の日米親善高校野球大会で出した157キロだと思います。甲子園では、同じ07年の夏(2回戦、対智辯学園高校)に出した155キロですね。

 

二宮: 智辯学園との一戦は、私もよく覚えています。甲子園最速ということで、プロのスカウトの目が血走っていました(笑)。そもそも、速いボールを投げられるようになったきっかけは?

由規: 高校時代は、走り込み以上に投げ込みで体を作っていました。その時に、指先から足先まで体全部を使って投げるようなイメージで練習をしていて、特に左手の使い方にこだわっていたんです。

 

二宮: ボールを投げる右手ではなく、グローブを付けた左手ですか。

由規: そうです。私の投球フォームはグローブを高めに構えるのですが、そこから左手を引く力を利用して、右手をグッと前に出すところに特徴がありました。

 

二宮: 左腕の反動を利用しているわけですね。誰かに教わったのですか。

由規: 高校の監督に「フォームに迫力がない」と言われ、球の速いピッチャーの映像を改めて見てみると、みんなダイナミックだったんです。さらに監督からは、「迫力を出すためには、まず左手の使い方を変えなさい」と言われたのですが、それがどういうことか最初はよく分からなかった。なので、とりあえず左手をあちらこちらに出してみたんです。

 

二宮 あちらこちらですか……それまでのフォームが大きく崩れそうですね。

由規 この際、ぐちゃぐちゃになってもいいやと(苦笑)。でも試行錯誤を繰り返す中で、それまでボールを握る右手に意識があったのですが、自然と左手に意識がいくようになって、次第に球速も上がりピッチングも安定していきました。実は野球だけ右でやっていて、もとは左利きなので、その点も功を奏したのかもしれません。

 

(詳しいインタビューは10月1日発売の『第三文明』2022年11月号をぜひご覧ください)

 

由規(よしのり)プロフィール>

本名は佐藤由規。1989年12月5日、宮城県仙台市出身。小学4年生から野球を始め、中学校時代にはリトルリーグで全国制覇した。仙台育英高校に進学後は、エースとして3度甲子園出場。3年夏の甲子園では155キロを計測し、観客を沸かせた。2007年の高校生ドラフトで5球団から1位指名を受け、東京ヤクルトに入団。1年目にプロ初勝利を挙げると、2年目には一軍の先発ローテーション入り。3年目には日本人最速(当時)となる161キロを計測し、シーズン12勝を挙げ、初めて2桁勝利を手にする。しかし、11年に右肩を故障すると、15年まで一軍登板なし。16年の7月24日の中日戦で1786日ぶりに1軍で勝利を挙げた。18年オフに戦力外通告を受け、東北楽天を経て、21年に埼玉武蔵ヒートベアーズ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)に入団。22年からは投手コーチを兼任している。


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