カタールW杯の初戦で、日本がドイツを破った意味は途轍もなく大きい。サッカーの師匠に対し、恩返しをしたと言っても過言ではあるまい。

 

 

 一昨年9月、日本サッカー協会は創立100周年を迎えた。

 

 サッカー後進国と呼ばれた日本が、あるべき理想の姿として思い描いていたのがドイツだからである。

 

 1960年夏、日本サッカー協会は64年東京五輪で主力になりそうな選手たちを強化するため、西ドイツ(当時)に派遣した。その時の“指導教官”が、後に“日本サッカーの父”と呼ばれるデットマール・クラマーである。

 

 すなわちクラマーの指導なくしては、東京五輪のベスト8進出も、68年メキシコ五輪の銅メダルもなかったのだ。

 

 そればかりではない。選手たちはドイツ遠征で、彼我のスポーツ環境の違いを肌で知ることになる。

 

 Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎も、そのひとり。合宿を張ったデュッセルドルフ近郊の『デュースブルグ・スポーツ・シューレ』には芝生が敷き詰められた8面のグラウンドの他、体育館、事務所ビル、ホテルなみの宿泊施設もあり、Jリーグを創設するに際し、これを青写真としたのである。

 

 スポーツでもっと幸せな国へ――。Jリーグ百年構想のスローガンは、ここから来ている。

 

<そのころ、私はたまたま通りかかった多摩川のグラウンドでプロ野球の巨人の練習を見たが、日本で最もメジャーなプロ野球の巨人の練習場でさえ、デュースブルグのスポーツ・シューレと比べたら月とスッポンの差があった。この差はどこから来るのか? 何が違うのか? (中略)Jリーグは、その不可能に思えたことに少しでも近づけるチャンスを、私に与えてくれた。>(『虹を掴む』川淵三郎著・講談社)

 

 日本代表の躍進が、93年にスタートしたJリーグによってもたらされたことは言を俟たない。手本としたドイツへの感謝を忘れてはならない。

 

<この原稿は『週刊大衆』2022年12月19日号の原稿を一部再構成したものです>

 


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