国枝慎吾さんの国民栄誉賞授与が検討されている。史上初めてとなるパラリンピアンの受賞。素晴らしい。本人はもとより、この競技を志す若者にとっても大きな励みとなることだろう。

 

 ただ、過去の受賞例の中には、せっかくの栄誉を単なる一過性のものとして終わらせてしまったものもあった。同じことが車椅子テニスに起こらないことを切に祈る。

 

 ちなみに、わたしが生まれて初めて取材をさせていただいた国民栄誉賞の受賞者は柔道の山下泰裕さんだった。緊張しつつ、何とか取材を終えたわたしが何げなく「頑張ってください」と口にすると、ロス五輪金メダリストの表情が曇った。

 

 「みなさんよくそうおっしゃるんですが、わたしはあまり好きじゃないんです。一緒に頑張りましょう、ならば嬉しいのですが」

 

 確かに、すでに十分頑張っている人間に、他人が「もっと頑張れ」というのもおかしな話。そういえば、阪神大震災の年、オリックスが掲げたスローガンは「がんばろう神戸」だった。

 

 以来、わたしはできる限りこの言葉を使わないようにしているし、今回も使わない。同じように無力、無意味に近かったとしても、「頑張れ」ではなく「頑張ろう」と考えたい。東日本大震災の際、海外勢では最長となる3週間もの間、現地で支援してくれた国トルコと、その隣国シリアのために。

 

 さて、話を変えて。

 

 わたしが小学生だった時代にもいた。高校生ぐらいになると圧倒的に多数派だった。

 

 持ちすぎ! と怒鳴る指導者。

 

 評価されるのは、仕掛けようとする勇気ではなく、ボールを失わなかったという結果。同じボールロストでも、パスによるものはドリブルによるものほどには怒られない。怖いもので、わたし自身、専門誌の記者になったころには記者席で「持ちすぎ」を糾弾するようになっていた。

 

 これには国民性も関係しているとは思う。国際会議における「日本人の3S(沈黙、微笑、居眠り)」と根は一緒。挑戦して失敗するよりは目立たずにミスを避ける。そう簡単に直せるものではない。

 

 だが……なぜ気付かなかったのだろう。ベスト、シモンセン、リティ、ロシュトー。世界を沸かせたドリブラーたちは、その多くが日本人と変わらない体形だった。“重戦車”ブリーゲルよりは、はるかに目指しやすい存在のはずだった。

 

 にもかかわらず、あまりにも長い間、日本人はドリブルという行為を否定的に捉えてきた。磨けば大きな武器になるはずの特徴を自ら消す作業を繰り返してしまった。

 

 そんな日本も、これから変わるかもしれない。

 

 ドリブルによるボールロストを怒る指導者はなくならないだろう。だが、選手からこう反論されたとき、彼らの多くは言葉を失う。

 

 「じゃ、三笘は?」

 

 絶滅危惧種と見られがちだったドリブラー、ウィンガーというポジションの魅力を、三笘は英国人に再確認させている。この流れが、日本人に影響を及ぼさないはずがない。そして、その気になれば、この国には英国人やドイツ人よりもはるかに器用で、繊細なボールタッチの少年たちがいる。

 

 時間はかかる。ただ、ドリブルを武器にした三笘の活躍は、日本サッカーを大きく変える可能性があるとわたしは思う。

 

<この原稿は23年2月9日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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