「今回の悔しさは、アテネの時とは比べものにならないですね」
 北京五輪ビーチバレーボール女子日本代表の楠原千秋は、北京での戦いについてそう語った。インタビュー中、表情こそ終始、笑顔がこぼれていた楠原だが、言葉の端々からは力を出し切れなかったことへの悔恨の念がにじみ出ていた。
「予選敗退と結果が出ずに悔しい思いをしたというのはアテネも北京も変わりはないんです。でも、アテネではシドニーで叶えられなかった目標を7年越しで達成できたということで、あの時は出場できることがすごく嬉しかった。最後には1勝もしましたし、やり切ったという感じがありました。ところが、今回はアテネ以上の成績を出したいと臨んだというのに、逆にアテネ以下の全敗に終わってしまった。ほんと、悔しいの一言に尽きますね」

 8月10日(日)、北京五輪第3日。楠原と佐伯美香は初戦を迎えた。相手はアテネの覇者、米国組。今シーズンもワールドツアー全勝と波に乗っていた。
 一方、楠原・佐伯組も北京入り以降、順調な仕上がりを見せていた。監督として帯同した徳野涼子も「変にプレッシャーも感じていなかったし、当日まではいい感じできていた」と自信をのぞかせていた。

 しかし、結果は第1セット12−21、第2セット15−21でセットカウント0−2のストレート負けだった。楠原・佐伯組にも勝機がなかったわけではない。随所にいいサーブが見られ、相手を走らせてもいた。さらに第2セットは途中まで8−6とリードを奪っていたのだ。「世界のトップを誇る米国組とはいえ、五輪という大舞台の初戦ということもあり、かたさが見られた」と楠原が語るように、米国組もミスがなかったわけではなかった。つけ入るスキは十分にあったのだ。

 だが、米国組は強かった。たとえサーブレシーブで崩されて不利な体制となっても、ラリーの中で立て直すことができた。また、リードを奪われても焦ることなく、コートチェンジをきっかけにして流れを引き戻した。
「1本ずつ集中していこう!」
「まずはここ1本を切ろう!」
 楠原も佐伯も必死に砂の上を走り回り、ボールに食らい付いた。だが、一度ついた米国の勢いを最後まで止めることはできなかった。

 決勝トーナメントには各グループ上位2組が進むことができる。初戦を落とした2人だが、まだ予選突破の可能性は十分に残っていた。そのため、第2戦のノルウェー戦は非常に重要な試合だった。

 当日、楠原も佐伯も既に気持ちは切り替わっていた。
「試合前のウォーミングアップを見ていて、『今日は2人とも体が切れていて、いいスパイクを打つなぁ。よし、今日はいける!』と手応えを感じていました」と徳野。同世代の監督はようやく2人が実力を発揮してくれるのでないかという期待感に包まれていた。

 ノルウェー組は大胆なプレーで攻めてくる分、もろいところもあった。だからサーブで揺さぶり、強打で攻めるというのが楠原・佐伯組の戦略だった。ところが――試合が始まってみると、楠原が逆に相手のサーブに揺さぶられてしまったのだ。サーブレシーブが乱れ、攻撃までつなぐことができない。第1セットは8−21と大差で落とした。

 続く第2セット、楠原は何とか修正しようと懸命になった。第1セットよりは多少、立て直すことができたが、それでも自分の中ではまだまだ修正しきれていなかった。
「自分は何をやっているんだ」
 そう思えば思うほど、焦りが生じ、ミスにつながった。最後までしっくりといかないまま、ゲームセット。目標としていた決勝トーナメント進出への道はほぼ閉ざされた。

 しかし、全く可能性を失ったわけではなかった。最後の試合、2セットともに大差で勝つことができれば、相手の結果によっては決勝トーナメントに進出できるかもしれない。楠原と佐伯は最後まで諦めてはいなかった。試合まで中1日あった。楠原はサーブレシーブの修正に努めた。

「とにかくこの舞台に立てる喜びを前面に出して、試合を楽しもう」
 第3戦、徳野はそう言って、コートに2人を送り出したという。
「その時の楠原の背中が今でも強く印象に残っています。すごく堂々としていて、ようやくいつもの彼女に戻っていた。1、2戦目も同じように送り出したのですが、私の目にはなんだか不安げに映っていました。心の中で“大丈夫かな? 頑張って!”と言っていたんです。でも、最後の試合ではもう何も心配していませんでした。全て吹っ切れていたんじゃないでしょうか」

 結果は0−2のストレート負け。それでも楠原は今大会初めて納得する試合ができた。
「1セットも取ることができず、悔しくないと言えばウソですけど、最後のキューバ戦に関しては自分の力を出し切ったという思いでした」
 楠原たちの北京五輪が静かに幕を閉じた。

楠原千秋(くすはら・ちあき)プロフィール>
1975年11月1日、愛媛県松山市生まれ。小学3年からバレーボールを始め、小学6年時には全国大会に出場。中学でもエースアタッカーとして活躍し、県や日本の選抜チームに抜擢される。大分・扇城高校(現・東九州龍谷高)2年時には山形国体で優勝。東京学芸大学4年時には主将としてインカレで優勝を経験した。ビーチバレーとの出合いは大学3年の時。友人に誘われて出場した大会で優勝し、インドアとは違うビーチバレーの魅力を肌で感じた。卒業後、地元のダイキに入社し、競技として本格的に始める。2004年のアテネ五輪に徳野亮子と出場し、1勝を挙げる。05年に湘南ベルマーレスポーツクラブに移籍。06年より佐伯美香とペアを組み、北京五輪出場を果たした。






(斎藤寿子)
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