「ほら、あそこ。今、セカンドを守っているのが熊代ですよ」
 案内をしてくれたマネジャーが指さした向こうには初々しさがまだ残る青年の姿があった。熊代聖人、19歳。今春、愛媛の強豪・今治西高校から日産自動車に入社した社会人1年生だ。
 高校まで投手一筋できた熊代は、甲子園のマウンドを3度経験。高校3年の夏にはエースとしてチームをベスト8に導いた。その熊代が今年、入社を機に打者に転向した。それはプロの道を切り拓くための勇断だった。
 高校2年からエースを張った熊代は、バッティングセンスにも長けていた。2年時からクリーンアップの一角を担い、高校通算本塁打数は44本を誇る。3年では「エース」で「4番」。まさにチームの大黒柱だった。投げてはよし、打ってはよしの熊代だったが、気持ちはやはりバッターボックスよりもマウンドにあった。「打つことよりも投げる方が好きだった」という熊代。そんな彼が、なぜ打者への転向を決めたのか。

 3季連続甲子園に出場したこともあって、熊代はプロ、社会人、大学から目をかけられていた。進路の選択肢はいくつもあった。だが、いずれも投手としての熊代ではなく、打者としての熊代を評価してのものだった。
「僕のように身長がなくても活躍しているピッチャーはたくさんいます。でも、そのほとんどが左なんです。右で身長もないとなると、並みのピッチャーになってしまうんです」

 実際、同級生でプロ入りしたほとんどの投手が身長175センチの熊代より高い。唯一熊代より低い佐藤祥万(文星芸大付高−横浜)はサウスポーだ。
「やるからには並み以上の選手になりたい」
 それが野手に転向した第一の理由だ。つまり、彼は投手へのこだわりを捨て、プロになるという目標をとったのだ。

 だが、子どもの頃からマウンドを守り続けてきた熊代にとって、プロ野球選手になった自分を思い描く時、それはいつもマウンドにいる姿だった。そんな彼が投手としての自分をそう簡単に諦められるはずはなかった。

「自分の中では転向することを決心して入社したんですけど、やっぱりピッチャーが投げているのを見ると、“うわっ、投げてぇな”って思っちゃいましたね。バッターに打たれたりすると“なんで、この場面でそんな配球すんのかな”なんて、ついピッチャー目線で考えちゃったり……。正直、気持ちが整理しきれていませんでした」

 しかし、その迷いは長くは続かなかった。投手としてはエースで鳴らしてきた熊代だが、野手としては1年生といってもいい。なかでも熊代に与えられたセカンド、ショートは難しいポジションだ。覚えなければならないことは山ほどある。ピッチャーを気にする余裕などなかったのだ。さらに、熊代は3月からレギュラーに抜擢され、試合に出場するようになっていった。もうその頃には気持ちは吹っ切れていたと熊代は言う。

「消耗品である肩やヒジのことを考えると、ピッチャーよりも野手の方が野球を長く続けられるんです。同じ投げるでもピッチャーとは違って、野手はスナップスローで済みますから負担が軽い。ピッチャーほど大きな故障にもなりにくいですしね」

 それは打者転向を自分自身に納得させた理由だったのかもしれない。彼の晴れやかな表情から未練というようなマイナス要素は感じられなかった。しかし、投手への熱い思いは未だあるように感じられた。いや、だからこそ熊代は新人とは思えない活躍をしているのだろう。
「マウンドに別れを告げてまで選んだ道だ。何が何でも成功させてみせる」
 そんな思いが無意識に熊代を奮い立たせているのではないか。

 記念すべき初安打&初アーチ

 甲子園で見せた勝負強さはバットが金属から木製にかわっても健在だ。3月の公式戦、初めてスタメンで出場した熊代は、初打席でいきなり三塁打を放ってみせた。
「あの打席は無心で打ちました。監督やコーチからも『気負わなくていいから、思いっきりいけ』と言われていたので、何も考えずにとにかく真っすぐだけを打とうと思っていました。狙い通り真っすぐが来たので思いっきり振ったら、右中間に飛んでいったんです。『ラッキー』って感じでした。
 でも、内心は『あぁ、よかったぁ……』とほっとしてたんです。というのも、入社した時から周りに『お前が熊代か、すごいんだろ』みたいに言われていたので、もうかなりのプレッシャーだったんです。『期待されてて三振だったら、まずいよなぁ』と。だから一打席目から会心の当たりが出て、本当に良かったです」

 社会人初のホームランは4月19日、第52回JABA岡山大会、2回戦新日鉄広畑戦。その試合、初めて3番に入った熊代は初回に先制の2ランを放った。それが記念すべき第1号だった。前日、19歳の誕生日を迎えた熊代は自らの祝砲でチームに勢いをつけた。結局、試合は逆転負けを喫したが、熊代は3安打を放ち、大活躍だった。

「ちょうどその試合に両親が来てくれていたんです。せっかく見に来てもらっているのに、タコったら嫌だなぁと思っていたのですが、両親の前で社会人初ホームランを打てたので、嬉しかったですね」
 熊代にとってはもちろん、野手として再スタートを切った息子の活躍を見ることができた両親にとっても忘れられない試合となったに違いない。

 5月からは「3番・セカンド」にすっかり定着した熊代は、6月の都市対抗野球大会の予選でも打撃は好調だった。守備でも一塁観客席ギリギリの飛球をフェンスに激突しながらもキャッチするなど、若手らしいハツラツとしたプレーでチームに貢献した。

 8月に入り、いよいよ都市対抗が近づいてきた。熊代は「どの試合でも必ず2本は打てた」というほどの絶好調ぶりだった。
「あぁ、オレ、都市対抗もいけるかもしれない」
 熊代は密かにそう思っていた。しかし、勝負はそれほど甘くはなかった。その頃を境に自分でも気付かないうちに調子は少しずつ落ち始めていたのだ。

 9月3日、日産自動車は都市対抗の初戦を迎えた。相手は三菱重工神戸。決して勝てない相手ではなかった。しかし打線が沈黙し、3回に1点を取るのが精一杯。元気のないチームに合わせるように、熊代からも快音は聞かれなかった。結局、日産自動車は1−5で初戦敗退を喫した。

「社会人独特の応援に圧倒されて、最初は地に足がついていない状態でした。甲子園でもお客さんは沢山入りますが、観客席が遠いのでそれほど気にならないんです。ところが、東京ドームは観客席が近いので、どうしても視界に入っちゃうんです。そのことでも緊張させられましたね。でも、1年目からあんな大きな舞台に立たせてもらって、いろいろと勉強になりました。日本選手権では、この経験をいかして都市対抗の分も打ちたいと思います」

 そう語る熊代の目は自信に満ち溢れていた。そしてもうそこには投手としての彼の姿はなく、ただあるのは「打者・熊代」だった。

(第2回につづく)
 

<熊代聖人(くましろ・まさと)プロフィール>
1989年4月18日、愛媛県久万高原町生まれ。小学4年から野球を始め、中学3年時にはボーイズ・松山プリンスクラブで西四国大会優勝を果たし、全国大会に出場した。今治西高校では2年からエースとして活躍。打者としても主軸を担い、3季連続甲子園出場を果たした。3年夏にはベスト8進出。秋の国体で優勝し、投手として有終の美を飾る。3年後のプロ入りを目指し今春、日産自動車に入社。投手から打者に転向し、現在は「3番・セカンド」に定着している。175センチ、72キロ。右投右打。







(斎藤寿子)
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