2006年8月8日、熊代聖人は甲子園のマウンドに立っていた。
「うわっ、すっげぇ。オレ、ほんとに甲子園に来たんだ……」
 幼少時代から憧れ続け、テレビでしか見たことのなかった夢舞台。そこに自分がいることが熊代は嬉しくて仕方がなかった。だが、「夢と感動」とともに、球児に「試練」を与えるのが甲子園だ。
「いやぁ、今思い出しても悔しいですね」
 2年以上も前のことだというのに、熊代には今でもあの時の悔しさが残っている。それほど大きな試練が熊代を待ち受けていた。
 熊代が本格的に野球を始めたのはボーイズ・久万クラブに入った小学4年からである。6年時にはエースとして活躍し、西四国予選決勝まで進んだ。だが、1−4で敗れ、全国大会に出場することはできなかった。ちなみにこの時の久万クラブの1点は熊代のホームランによるものだ。得点にはならなかったが、彼はこの試合、三塁打も打っている。この頃から打撃センスは抜群だった。

 中学に入ると、ボーイズリーグの松山プリンスクラブに所属した。3年の夏には西四国大会で優勝し、日本少年野球選手権出場を果たす。しかし、初戦で大阪代表の大東畷に4回コールド負けを喫した。先発した熊代はわずか3回を投げて7失点。初めての全国の舞台は完敗に終わった。

 高校は愛媛県立今治西高校を選んだ。今治西は進学率100%と県内有数の進学校だ。私立のような特待制度はなく、入るには一般生徒と同じように入学試験に合格するだけの学力がなければならなかった。当時、初戦敗退とはいえエースとして全国の舞台を経験した熊代には全国の高校から声がかかっていた。母親が県内への進学を希望していたが、もちろん県内の強豪校からも誘われていた。どちらにしろ野球一本で高校に行くことができる環境にあったのだ。にもかかわらず、熊代がわざわざ受験をしてまで今治西を選んだ理由は何だったのか。

「“野球バカ”って言われるのも別に嫌じゃないんです。そう言われたら素直に『はい、野球バカで結構です』って言いますよ(笑)。でも、野球だけしていると社会がわからなくなってしまうと思ったんです。だから、勉強もちゃんとやりたかった。それに野球だけやって他は何もしないんじゃ、周りからも応援してもらえない。『授業中寝ているヤツらをなんで応援せなあかんねん』ってなりますからね。そう思われるのが嫌だったんです。やっぱり応援してもらえるっていうのはありがたいことですから。だから勉強も頑張りたかったんです」

 熊代がそう思い始めたのは中学2年の頃だった。その年、夏の甲子園には今治西が出場していた。聞けば県内有数の進学校で文武両道を大事にしている高校だという。熊代は1年後、今治西を受験することをその時に決意した。
 とはいえ中学時代もクラブに所属し、野球漬けの毎日を送っていた熊代は推薦をもらうだけの成績ではなかった。そこで中学3年の夏の大会が終わると、受験モードに切り替えた。毎日必死で勉強し、成績はグングン伸びていった。その結果、無事に推薦合格を得た熊代は05年4月、念願だった今治西に入学。そして野球部の門を叩いた。

 先輩に譲った優勝投手の座

 今治西では入部してからしばらくは全くといっていいほどボールを触らせてもらえなかった。ランニング、腕立て、腹筋……と基礎トレーニングが繰り返された。しかし、中学時代から名が知れ渡っていた熊代に大野康哉監督は「期待しているぞ」と声をかけてくれていたという。

 間もなく、熊代はブルペンに入ることを許された。中学時代、試合以外でブルペンに入ったことのなかった熊代にとって、そこは憧れの場所でもあった。監督に初めてアピールできるという喜びも重なり、テンションは最高潮に達していた。だが、それが仇となった。
「よっしゃ!」
 気合い十分の熊代は、力いっぱいがむしゃらにボールを投げ続けた。それを見た大野監督からは「お前、えぇなぁ。今度の明徳義塾の遠征についてこい」と告げられた。指揮官に早くも認められ、熊代の高校野球は幸先のいいスタートを切った……かに思われた。

「うわっ、いてっ! やっべぇ……」
 翌日、熊代の右肩は悲鳴をあげていた。力任せの投げ方をしたばかりに、重度の炎症を起こしていたのだ。
「監督さんには『バカか、オマエは!』って怒鳴られましたよ(笑)」
 話ながら当時の自分の幼さと熱い性格ゆえの過ちが妙におかしかったのだろう。熊代は屈託のない笑顔でそう言った。

 だが、当時の彼にとっては深刻な問題だった。何と完治するまでに半年ほどかかってしまったのだ。これには監督も焦ったに違いない。
「監督さんに神戸の病院に連れて行ってもらったりして、必死でリハビリしました。僕はもともとルーズショルダーで関節が外れやすいんです。加えて中学時代にはアイシングなどのケアを一切していなかった。そこへ成長期にあんな無理な投げ方をしてしまったので、治るのに時間がかかってしまったんです」

 徐々に肩の痛みも癒え、熊代は秋頃からピッチング練習を再開した。だが、本格的な投げ込みはできず、新チームになってからも「投手・熊代」は封印されたままだった。だが、バッティングセンスを買われ、秋季大会には一塁手として先発出場した。いきなり3番に抜擢された熊代は、記念すべきデビュー戦の第1打席目をホームランで飾り、監督の期待に応えてみせた。さらにその試合、2本目のホームランを放った。最後はコールド勝ちを決めるサヨナラ打で締めくくる。「熊代聖人」の名が全国へと知れ渡る、その第一歩を踏み出した瞬間だった。

 春になると、ようやく本格的に始動した「投手・熊代」にはエースナンバーが与えられた。春の県大会、四国大会で優勝した今治西は、夏もその余勢を駆って3回戦では松山商業を10−2(7回コールド)、準決勝では済美高を7−2と県内の強豪校をも破り、順調に決勝まで進んだ。熊代は全5試合に先発し、3回戦から準決勝までは完投とエースとしての役割をしっかりと果たしていた。

 06年7月30日、決勝戦。相手は今治北高で、大会史上初の今治勢同士の対決となった。今治西は初回に主砲・宇高幸治の犠飛で先制すると、その後も効率よく得点を重ねた。熊代も6連投の疲れも見せず、8回まで2失点に抑える好投を見せていた。

 そして最終回。まずは表に今治西が2点を追加し、11−2とその差をさらに広げた。そしてその裏、熊代は2者連続の三振で簡単に2死をとった。いよいよ甲子園まであとアウト一つと迫ったその時だった。突然、観客席がざわめき始めた。なんと、好投を続けていた熊代がマウンドを降り、サードに入ったのだ。代わりにマウンドに上がったのはその夏、一度も投げていなかった背番号11の3年生ピッチャーだった。

「実は監督さんに『最後は山本に投げさせてくれんか』って言われていたんです」
 その時、大野監督はうっすらと目に涙を浮かべていたという。ヒジの痛み止めを飲みながら必死に投げ続けてきた熊代に申し訳ないと思ったのだろう。しかし、熊代は何のためらいもなく「いいですよ」とあっさりと快諾した。そしてブルペンで投げていた先輩に「大輔さん、最後お願いしますね」と告げた。
「本当にえぇんか?」
「はい! 僕には来年があるんで」
 そう言って、マウンドへと向かったのだ。
 2死無走者。熊代は最高のかたちで先輩にマウンドを譲った。

 すると試合再開のコールとともに、マウンド上の山本がベンチの方に向かって一礼をした。この場を与えてくれた監督への感謝の気持ちだった。その姿に誰よりも感動していたのは熊代だった。山本は2球目、最も自信のあるスライダーでショートゴロに打ち取った。打球がショートに転がると同時に熊代はいてもたってもいられず、マウンドに向かって走り始めていた。ショートの宇高がファーストへ送球し、「アウト!」のコールの時には既に熊代は山本を抱き上げていた。

「とにかく僕が一番に行って、大輔さんを胴上げしたかったんです。だって、3年生なのにずっと出れなかったわけです。そんな中、2年という立場で僕が投げていた。そう思ったら、一番に大輔さんに抱きつきたかったんです。当時の3年生はキャプテンの宇高さんをはじめ、本当にいい先輩たちでした。僕たちも3年生とすごく仲がよかった。だから、あの時の優勝は本当に嬉しかったんです」 
 こうして3年ぶり9回目の優勝を決めた今治西は愛媛代表として意気揚々と甲子園に乗り込んだ。熊代にとってはもちろん、3年生にとっても初めての甲子園だった。

 待ち受けていた試練

 初戦は甲子園常連校の常総学院(茨城)だった。だが、熊代はプレッシャーを微塵も感じなかった。ただただ憧れの舞台で投げられる喜びがあるだけだった。
「もう、楽しくて仕方なかったですよ」
 逆にそれが心の緩みを生じさせたのか、終盤には満塁ホームランを打たれ、それまであった6点のリードが一気に2点差まで詰め寄られた場面もあった。しかし、2ホーマーを含めて毎回の16安打で11得点をたたき出した打線の援護でなんとか逃げ切ることができた。

 2回戦の文星芸大付(栃木)戦は17安打12得点の猛攻で圧勝し、25年ぶりの3回戦進出を決めた。この試合も先発した熊代は初回に2点を失ったものの、2回以降は立ち直り、8回まで追加点を許さない好投を見せた。
 続く3回戦の日大山形戦は序盤から激しい打撃戦となり、ついには延長戦にもつれ込む接戦となった。この試合、今治西の先発は熊代ではなかった。

「オマエ、明日も投げるか?」
 前日のお昼頃、熊代は監督にそう訊かれた。
「もちろん先発で投げます」
 即答だった。しかし、県大会から熊代の肩やヒジには痛みが生じていた。それを薬でだましだまし投げ続けてきたのだ。熊代はまだ2年生だ。将来のこともある。監督にとっては熊代の身体が何より心配だったのだろう。そしてまたそんな監督の気持ちを熊代もわかっていた。だが、それでも自分は今治西のエースだ。エースならマウンドに上がるのが当然だと思っていた。

「絶対に投げます。腕がもげても僕は投げますよ」
 熊代がそう言うと、大野監督は「わかった。そういうことも踏まえて明日の先発を考える」と言ってその場では答えを出さなかった。監督から翌日の先発が発表されたのはその日の夜のミーティングでのことだった。
「明日の先発は新居田じゃ」
 熊代は思わず自分の耳を疑った。
「はぁ? って思いましたよ。ありえん、と。結局レフトで先発出場したんですけど、もう早く投げさせてくれ、という思いでいっぱいでしたね」

 翌日、自分の気持ちを必死で押し殺しながら、熊代は試合に臨んだ。投げられない悔しさをバットにぶつけ、初回の1打席目、熊代はライト前安打で出塁した。そして宇高のタイムリーで先制のホームを踏む。今治西にとっては幸先のよいスタートとなった。
 ところがその裏、先発・新居田浩文の制球が定まらず、なんと4失点を喫してしまった。 結局、1回ももたずに新居田は降板。2番手には熊代と同じ2年生の浜元雄大が上がった。

 ようやく3アウト目を取り、レフトからベンチに戻ってきた熊代はすぐさま肩をつくり始めた。
「早く投げさせてほしい」
 監督への無言のアピールだった。
 熊代に継投が告げられたのは3点ビハインドで迎えた6回表だった。熊代はこの回をきっちりと三人で終わらせた。するとエースの力投に打線が奮起し、その裏には2本の2ランで一気に勝ち越しを決めた。だが熊代は8回裏に1点を失い、振り出しに戻された。試合はそのまま延長戦に突入する。

 12回まで熊代と日大山形のエース阿部拓也がともに無失点に抑える好投を見せ、ゼロ行進が続いた。均衡が破られたのは13回表だった。今治西は1死一、三塁と一打勝ち越しのチャンスを得る。この大事な場面に打席に入ったのは熊代だった。
 カキーン!
「よっしゃ、真芯でとらえた!」
 そう思えるほど会心の当たりだった。しかし、不運にも打球はショートの真正面に飛び、相手にとっては絶好の併殺チャンスとなった。ところが、ショートからの送球が乱れ、セカンドがベースを踏むことができず、オールセーフに。この間に三塁ランナーもホームへ返り、勝ち越しのホームを踏んだ。さらに宇高の犠飛で1点を追加した今治西は10−8と2点をリードした。これで今治西の勝利は決定的と思われた。

 ところがその裏、熊代はわずか4球で3安打を浴び、1点差に詰め寄られてしまった。さらに日大山形はダブルスチールをしかけ、熊代にプレッシャーを与えてきた。無死二、三塁。ここで内野陣がマウンドに集まった。
「ここまで来たら、思い切って投げるしかないぞ」
 そう言ってエースを鼓舞し、それぞれのポジションに散って行った。

 だが、熊代はいつもの冷静さを取り戻すことができなかった。次打者への初球はワンバウンドとなり、自らの暴投でとうとう日大山形に追いつかれてしまった。なおも無死三塁。熊代はまるで甲子園の魔物にとりつかれたかのように呆然とした表情を見せていた。
 すると、キャプテンの宇高が一人、マウンドに駆け寄ってきた。
「今までお前が投げてくれてきたんやけぇ、お前が打たれたらオレは納得する。甲子園に一緒に来れただけでもオレは嬉しいんや。だからとにかく思い切って投げろ」
 尊敬する先輩の言葉が熊代はありがたかった。だが、それでも気持ちを切り替えることはできなかった。コントロールが全く定まらず、四球を出してしまう。ここで一か八かの満塁策がとられた。熊代の投球数はちょうど100球目を数えていた。

 そして運命の104球目、打球は高々とセンターへ上がった。ボールがグラブに収まった瞬間、三塁ランナーがホームへ駆け込んでいった。
「頼む! アウトにしてくれ!」 
 熊代は必死に心の中で叫んでいた。しかし、その思いは届かなかった。センターからの返球は大きくそれ、日大山形がサヨナラ勝ちを決めた。劇的な勝利に喜びを爆発させる日大山形ナインを目の前に熊代はうなだれるしかなかった。

 試合終了後、熊代は声をあげて泣いた。だが、誰一人彼を責める者はいなかった。
「お前は、来年あるけぇ。頑張れ」
「ここまで投げてくれてありがとう」
 先輩たちの言葉に熊代は悔しさと自分への不甲斐なさ、そして何より大好きな3年生に対する申し訳ない気持ちでいっぱいになり、流れる涙を止めることができなかった。

(第3回へつづく)

 

<熊代聖人(くましろ・まさと)プロフィール>
1989年4月18日、愛媛県久万高原町生まれ。小学4年から野球を始め、中学3年時にはボーイズ・松山プリンスクラブで西四国大会優勝を果たし、全国大会に出場した。今治西高校では2年からエースとして活躍。打者としても主軸を担い、3季連続甲子園出場を果たした。3年夏にはベスト8進出。秋の国体で優勝し、投手として有終の美を飾る。3年後のプロ入りを目指し今春、日産自動車に入社。投手から打者に転向し、現在は「3番・セカンド」に定着している。175センチ、72キロ。右投右打。






(斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから