「メークドラマ」――この言葉に懐かしさを憶える野球ファンは少なくないだろう。1996年10月6日、“ミスター”こと長嶋茂雄監督率いる巨人が、最大11.5ゲーム差もあったペナントレースを制した、あの大逆転劇である。その「メークドラマ」を語るのに欠かせないのがベテランリリーフ陣の活躍。その一人が“ゲンちゃん”という愛称で親しまれたサウスポー河野博文である。その年、FA権を行使し、日本ハムから移籍してきた河野はチーム最多の39試合に登板。6勝1敗3セーブを挙げ、川口和久らとともに先発投手を支える強力なリリーバーとして優勝に大きく貢献したのである。
 その夜、プロ入り12年目にして初のビールかけに、河野はただただ嬉しさを爆発させ、酔いしれていた。今思えば、それが16年間の現役生活で最高の瞬間だった。
 河野の出身地、高知県幡多郡大月町は人口約6500人、現在でも約7割を山林が占める。そんな自然豊かな町で生まれ育った河野は幼少時代、山にアケビを採りに行ったり、川でエビを取って遊ぶなど自然と戯れるまさに“野生児”。彼の強靭な体はこの頃に身についたものだったともいえよう。

 そんな河野が野球を始めたのは小学4年だった。通っていた小学校にソフトボールチームがあり、「友達がやっていたから」という理由で入ったのがきっかけだった。その頃のポジションはファーストとライト。何より楽しかったのは打つことだったという。
「とにかく遠くへとばすことがおもしろくて仕方なかった」という河野少年の憧れは、“世界の王”こと巨人の王貞治。将来、巨人に入ることが彼の夢だった。

 当時は近鉄や南海などが隣町の宿毛市野球場でキャンプを張っていた。鈴木啓示(近鉄)や門田博光(南海)といったパ・リーグを代表とするスター選手を目の当たりにし、河野はプロ野球への思いをますます強くしていった。

 中学校では軟式野球部に入った。がっちりとした体格で誰よりも強肩の持ち主だった河野は監督にピッチャーをすすめられた。投げ始めると、河野はすぐにピッチャーへの魅力にとりつかれた。とはいえ、1年の頃はエースは上級生。河野が登板機会を与えられることは少なかった。バッティングセンスにも長けていた河野は、野手として試合には出場していたが、やはりピッチャーとして出たいという気持ちの方が強かった。
「いつの間にか、打つことよりも投げることの方が楽しくなっちゃいましたね。抑えたときとか三振取ったときなんて、やっぱり嬉しいじゃないですか」

 2年になると河野はエースとなった。球種はストレートとカーブ。中学レベルを超えていた河野は地元ではそこそこ名が通っていた。投げてよし、打ってよしの河野がいれば、さぞかし強かったのだろう。そう思って中学時代の戦績を聞いてみると、河野の口からは意外な答えが返ってきた。
「一度も県で優勝したことはありませんでしたよ」

 実は河野の同期には将来、プロ入りが確実視されるほどの優秀な人材が河野以外に3人いた。宿毛市の中西清起(高知商−リッカー−阪神)、南国市の横田真之(明徳高−駒澤大−ロッテ−中日−西武)、伊吹淳一(高知高−法政大−熊谷組)である。
「4人が一緒になれば、甲子園での全国優勝も夢じゃない」と言われ、彼らが3年になると、県内の強豪校はこぞって彼らのスカウトに躍起になったという。

 なかでも河野と中西は同じピッチャー、隣町ということもあり、「宿毛の小筑紫に中西、大月の弘見に河野あり」と言われ、2人の対戦は地元ではちょっとした話題となっていた。しかし、中西の方が河野よりも一枚も二枚も上手だった。河野たちの中学はいいところまではいくものの、いつも中西に行く手を阻まれた。バッティングに自信を持っていた河野だったが、中西の中学生離れした速球に手も足も出なかったという。
 そして高校でも中西という大きな壁が河野の前に立ちはだかることになる。

(第2回へつづく)


<河野博文(こうの・ひろふみ)プロフィール>
1962年4月28日、高知県幡多郡大月町生まれ。明徳高(現・明徳義塾高)から駒澤大学へ進学。大学3年時には日米大学野球選手権で14奪三振の大会新記録を樹立し、最優秀投手に選ばれた。85年、ドラフト1位で日本ハムに入団し、1年目から先発ローテーション入りを果たす。88年には最優秀防御率(2.38)のタイトルを獲得。96年にFA権を行使し、巨人へ移籍。8月には14試合に登板し、4勝0敗1セーブ、防御率1.86の好成績を挙げ、月間MVPに輝くなど、貴重な中継ぎとしてリーグ優勝の立役者となった。99年オフに戦力外通告を受け、ロッテへ移籍。翌年、現役を引退した。2008年より独立リーグのBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを務めている。172センチ、85キロ。左投左打。

(斎藤寿子)





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