「明徳義塾高校」と言えば、周知の通り高知県内随一の甲子園常連校だ。創部以来、33年間で甲子園出場は春13回、夏11回を数える。2002年には悲願の全国制覇を成し遂げ、今や言わずも知れた野球名門校である。その同校野球部が弱小チームから甲子園を狙えるほどの強豪校へと生まれ変わる最初の第一歩となったのが、河野博文たち3期生の活躍であった。
 明徳義塾高は「明徳高校」として1976年に創立し、同年野球部も誕生した。当時の野球部は甲子園などは夢のまた夢。高知高や高知商など県内有数の強豪校からは全く相手にされなかった。「当時はどこと試合をしても0−10なんてザラでしたよ」と当時、コーチを務めていた中村敏彦氏は言う。

 そんな若くて弱いチームに、河野はなぜ進学したのだろうか。その理由は明徳の校長先生の熱心な誘いにあった。
「当時の校長先生は相撲好きでしてね。彼を見るなり“パワーもあるし、意外にも体が柔らかい。もし野球がダメだったとしても相撲でいける”と一目ぼれしたんですよ。それでうちに引っ張ってきたんです」(中村氏)

 実は、明徳は当時県内で最も注目されていた中西清起にも声をかけていた。だが、全く相手にされなかったという。おそらく甲子園、さらにはプロを狙っていただろう中西が創部2年目、県内でも大敗を喫していた明徳に興味を示さなかったのは当然のことだったかもしれない。中西は名門、高知商へと進んだ。

 河野と一緒に明徳に進学したのは明徳中学校からエスカレートで上がった横田真之だった。横田は野手では最も有望視されていた逸材だった。彼の他にも、県内のあちこちから優秀な選手たちが集められた。河野たちの学年は甲子園を狙うに十分な戦力があると言われ、監督もコーチも明徳野球部の歴史をつくるのは彼らしかいないと信じて疑わなかった。

 常識を超えた筋肉のやわらかさ

 明徳は当時から全寮制であったが、とにかく全てが厳しかった。起床、就寝時間は厳守、食事前には朝礼、夕食後には座禅を組む夕礼が日課となっていた。寮にテレビはなく、マンガを読んだり音楽を聴くことさえも禁じられており、いわゆる“娯楽”は皆無に近い生活を強いられた。そのあまりの厳しさに“脱走”する者もいたという。しかし、河野自身は一度も逃げ出そうとは思わなかった。始めは苦痛で仕方なかったが、慣れればそれが当然のように思えたのだ。

 一方、野球部の厳しさも生半可なものではなかった。当時の監督は終戦間もない1947年から16年間、高知商の監督を務め、同校を春夏合わせて12回もの甲子園出場に導いた松田昇氏(故人)だった。
「既に松田監督は還暦を過ぎていたのですが、とにかく厳しかったですよ。常に杖を持っていて、練習はいつもバックネットで見ていました。そこから拡声器で怒鳴るんですよ(笑)。まぁ、僕はそれほど怒られたことはありませんでしたけどね。でも、練習はきつかったですね。朝練も結構早くから毎日ありましたし、大会近くになると午後の授業時間も練習に充てられるんです」

 部員は50人以上の大所帯だったが、河野は入学後、すぐに頭角を表し、ベンチ入り。投手兼外野手として試合にも出場した。秋になり、1期生の3年生が引退して新チームになると、河野は早くもエースの座についた。

 ここで河野の筋肉がいかにやわらかいかを物語るエピソードがある。奈良の強豪・郡山高と練習試合をした時のことだった。松田監督は、河野がどれほどのピッチャーなのかを見極めるため、なんと「全球カーブ」を命じたのである。それは常識では考えられないことだった。変化球はヒジを痛めやすいため、まだ体が出来上がっていない時期には控えこそしても、多投を命じることはまずない。加えて握力が低下するため、1試合を変化球のみで通すことは困難を極める。

「ところが、河野は最後まで投げ切ったんですよ。負けはしたものの、1−2という接戦でした。試合後も痛いだの何だのって一言も言わなかったですよ。それほど彼の筋肉はやわらかかった証ですよ」と中村氏。筋肉がやわらかいと、疲労物質となる乳酸が早く代謝分解される。そのため、疲労がたまりにくく、ケガをしにくいと言われている。河野がプロ入りまで一度も故障という故障をしなかったのは、このやわらかい筋肉のおかげなのだろう。

 こうして河野は順調に力をつけていった。特に高2の秋には走りこみと振り込みを徹底したことで、ボールの威力もキレも増した。当時の河野の持ち球はストレートとカーブの2種類。ストレートはスピードこそ140キロそこそこだったが、体重が乗せられたその球質は非常に重かった。それに大きく曲がるカーブを織り交ぜたピッチングは、甲子園を狙うには十分だった。

 河野の成長と比例して、チーム力も上がり、明徳はいつしか県内では強豪の仲間入りをしつつあった。だが、やはり甲子園常連校の壁は厚かった。どうしてもあと一歩のところで高知商、高知を破ることができず、ベスト8、ベスト4止まり。逆に高知商に進んだライバルの中西は、3年春には選抜大会に出場し、日本一を達成。全国のお茶の間に中西の名が知れ渡り、一躍有名人となっていた。

 夢に終わった甲子園

 そしていよいよ高校最後の夏を迎えた。河野たちに残されたチャンスは1度きり。何としても甲子園の切符を掴もうと、明徳ナインは必死になって戦った。河野も調子は悪くなかった。準決勝まで一人で投げ切り、決勝へと導いた。夢にまで見た甲子園まであと1勝。その相手は中西を擁する宿敵・高知商だった。

 おそらく大方の人が「明徳・河野vs.高知商・中西」のライバル対決を予想していたことだろう。もちろん、河野も自分が投げるつもりでいた。ところが、松田監督が先発に起用したのは、その夏、一度も公式戦で投げたことのなかった背番号11の控え投手、久保田賢良だった。それは高知商のバッターたちはサイドスローに弱いと踏んだ松田監督の奇策だった。

 序盤、高知商に1点を先制されたものの、中盤に4番の河野が値千金の2ランを放った。「打ったのはカウント1−2からのインコースのストレート。もう、ドンピシャで気持ちよかったですよぉ。中西から打ったヒットの中で一番の会心の当たりでしたね」。河野は最高の気分でダイヤモンドを一周し、逆転のホームを踏んだ。しかし、喜びも束の間だった。すぐに高知商が追いつき、2−2の同点で試合は9回裏に突入した。ベンチにはどことなく河野への交代という空気が流れていた。しかし、この場面でも松田監督は動かなかった。久保田、続投。「投げたい」という気持ちを必死にこらえながら、河野は自分に与えられた守備位置のライトへと向かった。

 明徳は2死までこぎつけたが、一、三塁と一打サヨナラのピンチを迎えた。ここで4番・中西との勝負を避け、敬遠で満塁策をとった。久保田は次打者をカウント2−2まで追い込む。5球目、真ん中やや高めのボールに球審の右手が一瞬、上がりかけた。しかし、判定はボール。9回裏、2死満塁、フルカウント――泣いても笑っても、あと1球で勝負が決まる。球場にこの試合一番の緊張が走った。

「打たれてもいい。とにかく思いっきり投げてくれ!」
河野は全てをマウンドの久保田に託し、静かに見守っていた。そして、久保田の投げた球がキャッチャーミットに収まる。その瞬間、河野は「よし、ど真ん中、ストライクだ!」と思った。ところが、高知商の三塁ランナーが喜び勇んでホームへ走っていく。河野は一瞬、何が起きたのかわからず、茫然としてしまった。

「僕には確かにど真ん中に見えたんですけどね。ビデオで今見ても、やっぱりストライクでしたよ。でも、抗議なんかできないし……。最後の夏だったからこそ、本当に悔しかった。試合後は僕もみんなも泣きじゃくりましたよ」
 
 押し出しサヨナラ負け――一度も甲子園のマウンドを踏むことなく、それどころか決勝で一球も投げないまま、河野の高校野球が終わった。

(第3回へつづく)


<河野博文(こうの・ひろふみ)プロフィール>
1962年4月28日、高知県幡多郡大月町生まれ。明徳高(現・明徳義塾高)から駒澤大学へ進学。大学3年時には日米大学野球選手権で14奪三振の大会新記録を樹立し、最優秀投手に選ばれた。85年、ドラフト1位で日本ハムに入団し、1年目から先発ローテーション入りを果たす。88年には最優秀防御率防御率(2.38)のタイトルを獲得。96年にFA権を行使し、巨人へ移籍。8月には14試合に登板し、4勝0敗1セーブ、防御率1.86の好成績を挙げ、月間MVPに輝くなど、貴重な中継ぎとしてリーグ優勝の立役者となった。99年オフに戦力外通告を受け、ロッテへ移籍。翌年、現役を引退した。2008年より独立リーグのBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチを務めている。172センチ、85キロ。左投左打。

(斎藤寿子)





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