中央と地方の間に大きな壁が存在した1994年、日本の競馬界を根本から変える1つの改革案が示された。「地方交流レースの創設」だ。各地区で中央競馬認定の競走を実施し、勝ち上がった馬は地方競馬所属のまま、中央のクラシックレースに挑戦することができるというものだった。この交流制度を世に知らしめたのは、岐阜県・笠松競馬場に所属していたライデンリーダー。『開放元年』と言われた95年、10戦10勝で地元のレースを勝ち抜き、中央競馬のクラシックレース第1弾・桜花賞(G?)への出走権をかけ、報知杯4歳牝馬特別(G?)に出走した。
 このレースでライデンリーダーは、並み居る中央の強豪馬を直線一気の追い込みで完封する。桜花賞への出走権を獲得しただけでなく、地方競馬の底力を全国の競馬ファンに見せ付ける格好となった。ライデンリーダーに騎乗していたのは、笠松競馬で17年連続リーディングジョッキーとして活躍していた安藤勝己。この勝利は安藤にとっても、大きなターニングポイントとなった。

 ライデンリーダーは続く桜花賞で1番人気に支持されるものの4着、続くクラシック第2弾オークス(G?)でも13着に敗れ、期待どおりの成績を収めることはできなかった。しかしながら、4歳牝馬特別での1勝は地方競馬関係者に大きな希望を与えた。

 中央競馬関係者にとっても、交流制度は大きな転機となった。通常、中央競馬のレースは、1つの競馬場で1日12のレースが行われる。そのうち1レースでも地方競馬所属の馬が出走するレースがあれば、遠征馬に騎乗するため地方競馬のトップジョッキーがやってくる。

 中央競馬と違い、毎日のように開催がある地方競馬のトップたちは、想像以上に腕が立った。地方馬に乗るレース以外の11レースで、地方ジョッキーへの騎乗依頼が殺到した。先述の安藤の他にも、東海地区の吉田稔、兵庫・園田競馬の小牧太、岩田康誠らが中央の舞台で活躍するようになっていった。

 グローバルな発想が生んだ豪州遠征

 これまで、別世界の出来事として中央競馬を見ていた鷹野にとっても、安藤の活躍は中央を見る目の変わる大きな出来事だった。「アンカツ(安藤勝己)さんが中央に行きだしてから、やっと繋がっている世界だと実感できるようになりました」。

 しかし、高知競馬は地理的要因もあり、中央との交流が少なかった。交流重賞である黒船賞を含め、1年に5つほどの交流競走しかなく、鷹野らにチャンスが巡ってくることはほとんどなかった。「ただ、繋がっている世界といっても、まだまだ自分の居場所からは程遠い所でしたね」。

 中央競馬が盛り上がる中、多くの地方競馬場はバブル崩壊後、深刻な売上減少に悩んでいた。経営難のため廃止される競馬場も出てきた。高知競馬も馬券売上・来場者ともに右肩下がりで減少を続けた。もともと地方自治体の財政を助けるために行われてきた公営競技だったが、毎年のように赤字経営が続いていた。

 売上の減少に悩む高知競馬場で00年、1つの企画が持ち上がる。鷹野をはじめとした所属騎手4名がオーストラリア・ムイルンバー競馬場へ遠征し、高知にちなんだ「竜馬」や「よさこい」という名を冠したレースを行ったのだ。この企画には当時の橋本大二郎知事も賛同し、調教師・獣医らも含め22名の競馬関係者がオーストラリアへ渡った。この様子は全国紙に取り上げられ大きな話題となり、高知競馬のPRに一役買った。

 この企画を発案したのは、高知競馬場で誘導馬に乗っていた鷹野の妻・美穂だった。旅行会社の手配や現地でのコーディネーター探しなど、全てゼロからのスタートだったが、手探りで遠征を実現させた。少しでも費用を抑えるため、現地の老人ホームへ慰問するボランティア活動なども行った。

 美穂は高校卒業後、高知から上京し、都内の大学に進学した。その頃から競馬観戦をしていた彼女は、中央競馬の魅力に取り付かれたファンの一人だった。

 1984年11月、東京競馬場で行なわれた第4回ジャパンカップ。当時は日本の競馬が世界から大きく後れをとっていた時代だ。ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の3冠馬の対決が注目を集め、日本馬初のジャパンカップ制覇に期待が寄せられた。しかし、このレースを勝ったのはカツラギエースという10番人気の逃げ馬。日本馬として初めてビッグタイトルを獲った伏兵の鞍上は西浦勝一騎手(現・調教師)だった。

 美穂は高知出身の西浦が大レースを制する姿を、競馬場のスタンド最前列に陣取り観戦していた。「あの逃げ切りを生で観て、鳥肌が立ちました。同郷の人でも世界を相手に戦うことができるんだ。世界で乗ることも不可能ではないんだと感動しました」。

 大学卒業後は高知へ戻り、乗馬クラブに通っていた頃からの知り合いである鷹野と結婚し、競馬場で仕事をしながら、鷹野を陰から支えてきた。

 鷹野は美穂について「何でも挑戦しなければ気が済まないタイプ」と口にする。地方の競馬しか知らない鷹野と、一人の競馬ファンとして中央競馬を知り、故郷へ戻ってきた美穂とでは競馬に対する考え方が大きく違っていた。「競馬の世界に壁なんかない。国内だけでなく、世界にだって色んな競馬がある」。美穂のボーダレスな思想がオーストラリア遠征を実現させた。

「女房がいなければ、海外遠征も今の自分もなかったと思います」と笑顔で語った鷹野。このオーストラリア遠征は、後に起こる様々な出来事の伏線となっていく。

 競馬ファンが押し開けた、中央への扉

 中央と地方の垣根が低くなるにつれ、地方のトップジョッキーが中央競馬への移籍を望む声が多くなった。彼らは地方競馬からの遠征馬がいなければ、いくら中央の関係者から騎乗の依頼があっても、中央で騎乗することができなかった。また、少しでもレベルの高い舞台で自分の腕を試してみたいと考える騎手も多くなってきた。それはアスリートとして、勝負師としての本能からすると、ごく自然な流れだったのかもしれない。

 ここで大きな障害となったのは、中央競馬における騎手試験だった。地方競馬の騎手が中央競馬の騎手になるためには、競馬学校で勉強してきた生徒と同様の1次試験から受験する方法しかなかった。安藤は01年、中央競馬の騎手過程への受験をしている。

 しかし、安藤はこの1次試験で不合格となった。中央競馬の騎手試験は競馬学校で3年間、様々な教科の座学を勉強しない限り、通過することは困難だった。特に地方競馬の騎手は平日にもレースや調教があるため、圧倒的に学習する時間が不足していた。

「安藤、不合格」の報に対し、全国の競馬ファンから疑問の声が上がった。「地方競馬で3000勝以上を挙げている騎手と、全く騎乗経験のない少年と同じ試験を課すのはおかしい」。ファンの目線からすれば、当然の声だった。

 ファンの声に後押しされる形で、JRAが制度を変更したのは02年7月のこと。「過去5年間、中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上収めた騎手」に限り、1次試験を免除するという規則を設けたのだ。この制度により実質、地方競馬の騎手に門戸が開放された。適用第1号として、安藤が03年3月に中央へ移籍を果たす。

 しかし、中央と交流する機会が少ない高知競馬に所属する鷹野にとっては、この制度も無関係なものだった。

「高知競馬の経営がだんだん悪くなってきて、トップジョッキーが他地区へ移籍し始めました。徳留(康豊)さんは金沢に戻り、北野(正弘)・中越(豊光)の両騎手は賞金レベルの高い園田へ行ってしまった。徐々に高知が空洞化していったことは否定しません。

 中央を見ると、ライデンリーダー以降、中央に挑戦してG?に勝つジョッキーも登場しました。しかし、僕らにとっては同じ次元で考えられる舞台ではなかった。中央で乗ったことのない僕が移籍したいと思っていても厳しいと言われる1次試験が課せられます。

 そもそも、自分は高知で騎手会長になっていたし、自分を育ててくれた競馬場をよくしたいと考えていて、中央に移籍しようなんて考えは全くなかった。それだけ高知競馬が好きでしたから」

 少しでも地元の状況をよくしたいと奮闘してきた鷹野の耳に、その後の人生を大きく左右するニュースが飛び込んできたのは03年10月のことだった。

(第3回につづく)
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<鷹野宏史(たかの・ひろふみ)プロフィール>
1964年10月4日、高知県高知市生まれ。17歳で高知競馬場からデビュー。85年、初のリーディングを獲得、90年には2度目のリーディングジョッキーとなる。05年に高知競馬史上2人目の2000勝を達成。同05年から中央競馬騎手試験を受験し、08年2月、4度目の受験で合格。43歳で晴れてJRA騎手となる。地方通算14345戦2190勝(高知競馬歴代2位)、中央通算197戦4勝(09年5月4日現在)。160センチ、49キロ。美浦・二ノ宮敬宇厩舎所属。







(大山暁生)
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