第167回「課長! 2回目のパラリンピック出場が決まりました!」
パリパラリンピックが8月28日(現地時間)に開幕しました。168の国や地域(難民選手団を含む)から参加する選手はおよそ4400人。日本選手団は175人で、国外で行われる大会では最も多い参加となりました。
JPC(日本パラリンピック委員会)が発表した日本代表選手名簿には、<現住所><勤務地・学校名><クラブチーム>などの欄があります。
勤務地・学校名が空欄なのはわずか4名です。全国の様々な地に住居し、それぞれの勤務先、通学先をもち、競技に取り組んでいる選手たち。今大会の出場権を獲得した、晴れ晴れとした笑顔が並んでいます。
この情報に触れたとき、60年前の1964年開催された東京パラリンピックに出場した選手、その選手のサポートをした方、大会ボランティア経験者にお話をうかがったことを思い出しました。
1964年東京パラリンピックは、参加国21、選手374人でした。そのうち日本選手は53人。
注目すべきは、この53人のこと。
当時のパラリンピックは脊髄損傷で車いすを使用している人が参加する大会。当時、脊椎損傷の患者は特定の病院か施設で暮らしていました。この頃は彼、彼女らがスポーツをするということはほとんどありませんでした。そこで、いくつかの施設で、選手が指名され、練習が始まりました。選ばれた人の中には、参加に消極的な方もいたという状況でした。
さらに特筆すべきは、選手の中で働いていた人はわずか3名(5名とおっしゃる方もいた)で、全員が自営業であったこと(家業の手伝いだったとのこと)です。
1964年の東京大会に出場した方に、他国の選手と自分たちとの違いについて、以前、お話を聞きました(第81回 53年前の「東京パラリンピック」がくれた宝物)。
海外の選手たちは仕事を持ち、家庭を持ち、日常的にスポーツをしていると。自分たちは病院で暮らし、スポーツも仕事も、もちろん家庭も。そして、未来への希望がない……。あまりの違いに驚きを超え、何が何だかわからなくさえなりました、と。
このパラリンピック出場を機に選手たちは変わりました。リハビリに取り組み、就職をしたり、スポーツを楽しんだり、家庭を築いたりしました。海外の選手に聞くまでは考えもしなかったことを次々に実現していったのです。
以降、パラリンピックに関わる環境は、少しずつ変わっていきます。
その過程で、2004年アテネ、2008年北京とパラリンピック2大会連続出場した選手に聞いた言葉です。
出場が決まり、所属する職場の課長に晴れ晴れとした気持ちで報告したそうです。
「今回のパラリンピックも出場が決定しました!」
ところが、課長は下を向いたまま「またかよ」と一言。その場は凍りついたそうです。
「私は頭が真っ白になりました。自分だけ有頂天になって。職場にとってどんなに迷惑な話なのか、まったく気がつかなかった」と。
60年を経て、選手たちは自ら選んだ地に住まい、家庭、学校、職場、そして地域からたくさんの笑顔で送り出されたに違いありません。隔世の感があります。
ゆっくりと、あるいは急激に、様々なスピードでの変化を経て、2024年のパラリンピックが開幕しています。
<伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。パラスポーツサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。STANDでは国や地域、年齢、性別、障がい、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション事業」を行なっている。その一環としてパラスポーツ事業を展開。2010年3月よりパラスポーツサイト「挑戦者たち」を開設。また、全国各地でパラスポーツ体験会を開催。2015年には「ボランティアアカデミー」を開講した。2024年、リーフラス株式会社社外取締役に就任。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ~パラリンピックを目指すアスリートたち~』(廣済堂出版)がある。